今回は『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊(以下、GHOST IN THE SHELL)』について語っていく。
『攻殻機動隊』は士郎正宗による漫画で、それを押井守が劇場アニメ化させたのが『GHOST IN THE SHELL』だ。『攻殻機動隊』はいくつものアニメ作品があるが『GHOST IN THE SHELL』は第1作目となるアニメ作品で、1995年に公開された。
アニメ制作はProduction I.Gが担当している。
『GHOST IN THE SHELL』の評価
※ネタバレ注意!
作画 | 90点 |
世界観・設定 | 93点 |
ストーリー | 90点 |
演出 | 87点 |
キャラ | 84点 |
音楽 | 80点 |
作画
1995年制作であることを考えると、作画のクオリティはぼちぼち高い。相当のお金をかけていることがわかるし、クレジットを見ても、今となっては有名なアニメーターが何人も携わっていた。
とにかく情報量が多く、特に香港の人混みの中でもチェイスシーンでは、あまりにも情報量が多すぎて、僕の脳が一瞬ダウンしてしまった。
世界観・設定
『GHOST IN THE SHELL』の魅力は、何といっても世界観・設定にあるだろう。1995年公開にもかかわらず、インターネットによって支配された世界を見事に表現している。また、「人間の自我」というテーマに関しては、現在、ジェネレーティブAIの登場により、再度注目を集めている領域である。熱烈なファンが多いのも頷ける。
ストーリー
実のところ、上映時間は思っていたよりも短く、85分。世界観を理解するのに苦労するけど、草薙素子と人形使いの2人の関係性が深掘りされたストーリーだったので、うまいことまとまっていたと思う。この手の作品は、大抵、いろいろなことをやりがちになってしまうけれど『GHOST IN THE SHELL』に関しては、余計な部分をうまくカットしていた印象。
演出
とにかくグロい。人間の身体が機械に代替されている設定ということもあり、身体の内部がリアルに表現されている。一方で、画面構成は比較的落ち着いている。突飛な演出は抑えめだ。しかし、ゴーストハックのシーン含め、なんかどんどん作品の中に引き込まれていく感じがする。
また、ラストの異質な雰囲気は非常に印象的だった。やはり草薙素子が怖い。人間らしいシーンはほとんどなく「人形」という印象が常に付き纏っていた。
キャラ
作中に登場するキャラクターはほとんどがまともだが、草薙素子だけ異様な雰囲気を放っている。あのキャラクターの在り方は独特だ。バックグラウンドが不明瞭なため、彼女の「人生の指針」が全く見えてこない。でも多分、知的好奇心が旺盛なのだと思う。
音楽
潔く、主題歌という主題歌はほとんど存在しない。Wikipediaによると「絶対に洋楽は制作しない」ということだが、たしかに洋楽はほとんどなく、民族音楽がメインになっていた。舞台のモデルが香港ということもあり、かなりアジアな雰囲気を感じる。映画館で聴きたかったなぁ。
『GHOST IN THE SHELL』の感想
※ネタバレ注意!
GHOST IN THE SHELL(殻の中の魂)
『GHOST IN THE SHELL』のテーマは「人間とは何か?」ということだと思う。Wikipediaによると、この『GHOST IN THE SHELL』というタイトルは、アーサー・ケストラーの『The Ghost in the Machine(機械の中の幽霊)』に由来していると言われているそうで、この『The Ghost in the Machine』も、ギルバート・ライルの『心の概念』において、デカルトの心身二元論を批判する反語「機械の中の幽霊のドグマ」からの引用だとされている。
そもそもデカルトの心身二元論とは「自由意志を持つ心と、機械的動作を持つ身体は独立して存在し、それぞれが相互作用する」という考え方を指す。つまり「心と身体は別物」という考え方だ。この考え方の本質は「身体は所詮、心の入れ物に過ぎない」という思想にある。「心>身体」なのだ。
『GHOST IN THE SHELL』の世界は、テクノロジーの発展により、人間の身体を機械に代替することが可能になっている。そのため、我々が住む世界に比べても、身体に対する存在価値が薄まっていると考えられる。この世界の中で主人公の草薙素子は、どういった背景があったのかは説明されていないが、身体の大部分を機械で代替している。草薙素子という存在を確定させているのは「脳」だけだが、これは素子が直接確認できるものではない。つまり、認識を基準とした世界において、草薙素子は自分の存在を完全に信じることができない状況にある。そしてこの状況を含めて、素子は自分のゴーストが一体何なのかを探究しているのだ。
その結果が、人形使いとの融合である。
生命の定義
『GHOST IN THE SHELL』では当初、人形使いは”国際手配中の凄腕ハッカー”ということになっていたが、その正体が「情報の海で発生した肉体の存在しない生命体」であることが発覚。そして人形使いは自らを「生命体」だと主張し、政治的亡命を要求するようになるまでになった。
一方で人形使いは「自分自身を生命体だと主張するためには身体的な機能が必要だ」とし、具体的には「死」と「子孫を残すこと」が必要だと述べた。だから草薙素子と融合したがっていたのだ。
これは、一理あるだろう。自身が生命体であることを証明するためには、身体的な機能が必要だと、僕も考える。もし仮に、その意思に自我があり、感情があったとしても、所詮、その意思はただの幻想に過ぎない。アニメの中に登場するキャラクターや、ChatGPTのボットと何も変わらない。しかし、そこにもし身体的機能があったとしたら、具体的には「死」「子孫を残す能力」「生理的機能」が存在するとしたら、それは我々人間とほとんど変わりのない生命体だと言える。
このように考えると、たしかにデカルトの心身二元論は無理がある。自分自身を定義するには、心だけでは不十分だ。たしかに「精神>身体」の図式は成立すると思うが、しかしだからと言って、精神と身体を完全に切り離すことはできない。精神と身体のどちらもがあって、ようやく、自分を自分だと証明することができるのだ。
……というのが『GHOST IN THE SHELL』に込められているメッセージだと思う(かなり簡単に言えば、だけど)。
人間の定義
僕は現在23歳だが、僕の20代のテーマは「幻想とのバランスポイント」である。
現在、ジェネレーティブAIの登場により「人間とは一体何なのか?」という根源的な問いに多くの人が頭を悩ませるようになったと思う。ジェネレーティブAIは、莫大なビッグデータの中から抽出した情報を用いて、画像・文章・音楽を生成するAIを指す。この生成されたデータの扱い方について、様々な視点での議論が交わされている。その中でも各メディアのクリエイターにとって大きな争点になりそうなのが「著作権」だ。
だが、この「莫大なビッグデータの中から抽出した情報を用いて、画像・文章・音楽を生成する」という工程は、AIと人間とで大きな違いがないような気がする。我々人間も、様々なものを見たり聞いたりして、それらの経験を元に、何かを作る。AIはこれを一瞬でやってのけるというだけで、この生成プロセス自体は、人間とAIで大きな違いはない。
『GHOST IN THE SHELL』のラストで、人形使いと融合した草薙素子が、殻から完全に解放され、インターネットの海に飛び込もうとする説明がなされた。これは単にデジタルかそうでないかに違いに過ぎないわけで、やはりプロセスは、人間もコンピュータも大きな違いがないのだ。
となると、人間の定義は、やはり「自我や思考にはない」という可能性が出てくる。だから、ジェネレーティブAIは、多くの識者の議論の的になっているのだ。なぜならこれまでの社会では、知的生活こそが人間の定義だとされてきたからだ。
では現在、先を見通している賢者は何を考えているのかというと、動物的な行動への回帰である。従来の社会では「知的生活こそが人間たらしめるもので、欲望にのみ忠実なライフスタイルは動物と変わらない」とされてきた。これは、人間と動物の対比によって生まれた考え方だと思う。しかし、知的生活を脅かす存在が新たに登場することになる。それがコンピュータだ。
そこで今一度、動物的な行動に回帰する流れが生まれ始めている。本を読んで様々な議論を交わす知的生活は、コンピュータの登場で、価値がどんどん薄まっている。だからこそ、再び動物的な行動にフォーカスする必要が出てきている。動物的な行動は、具体的に言えば、睡眠欲・食欲・性欲などによってもたらされる行動を指すだろう。そして人形使いが言ったように「死」と「子孫を残す能力(セックス)」も該当する。人形使いと草薙素子が融合(セックス)で自分の存在意義を確かめたように。
ということで冒頭の「幻想とのバランスポイント」である。人間の集合意識でのみ存在できる幻想(お金、偶像、社会など)との距離感を掴むことが、とても大切なのではないかと僕は思うのだ。これまでだったら、幻想に浸り切る知的生活を送っていれば賢かったかもしれないが、これからは、あえて欲望に忠実であることが賢い生き方になるのだと僕は考える。