今回は『イノセンス』について語っていく。
『イノセンス』は、1995年に公開された『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の続編作品で、2004年に公開された。
アニメ制作は前作に引き続きProduction I.G、監督も押井守が担当した。
『イノセンス』の評価
※ネタバレ注意!
作画 | 100点 |
世界観・設定 | 92点 |
ストーリー | 90点 |
演出 | 95点 |
キャラ | 87点 |
音楽 | 87点 |
作画
日本式アニメにおける1つの最高到達点とも言える作画だと思う。押井守監督の極致といっていいだろう。3DCGと手描きアニメのコンポジットといえば、僕はufotableが思いつくけど、『イノセンス』はufotable作品の10歩ぐらい先を言っている。言っておくけど『イノセンス』は2004年制作なわけだから、これがどれだけ異常なことかがわかる。
これまで僕はあえて100点をつけることがなかったのだけれど、流石に『イノセンス』は100点満点だろう。素晴らしい映像体験を味わうことができた。映画館で見たかったよ、マジで。
世界観・設定
『GHOST IN THE SHELL』の世界観を継承していて、ダークで、かつ哲学的な設定だった。結局、科学が行き着く先は哲学なのだろう。
3DCGのクオリティが非常に高く、2004年に日本で制作されたアニメとは思えない。中国のカオスな街並みを見事に表現していた。
ストーリー
『イノセンス』はバトーを主人公だけれど、十分すぎるほどに個性が強かった。全てのセリフにメッセージが込められていて、そこに関しては無駄が一切ない。一方で、映像と音楽だけのシーンを大胆に挿入することもあって、これが視聴者を世界に引きずり込んでいる。トグサの「そろそろ仕事の話しないか?」が好き(笑)。
演出
『イノセンス』は「3DCGと手描きアニメの合成」という点でとんでもないことになっているのだけれど、それを活用した演出が用いられていた。エフェクトもガンガン使っていて、空間の構造がわけわかんないことになっている。平面のはずなのに立体に見えるし、でも立体空間として捉えても矛盾があるから、もはや多次元。頭の中がぐるぐるかき混ぜられる感覚だった。
キャラ
『GHOST IN THE SHELL』では草薙素子の相棒として活躍していたバトーが主人公。そのバトーの相棒としてトグサが選ばれている。草薙素子は終盤からバトーのヘルプに入る感じ。それぞれのキャラクターにちゃんと意味があって、バトーが犬を飼い、トグサに妻子がいるという設定が、あれほどのメッセージになるとは思っても見なかった。
音楽
『イノセンス』でも『GHOST IN THE SHELL』と同様の楽曲が多数用いられていた。洋楽が用いられることはほとんどなく、民謡の印象が強い。神々しい。
また、WIkipediaによると、オルゴールの音の収録は、わざわざ機械収録した音源を採掘場跡の地下空間で流して、それを再度収録したのだそう。つまりスタジオから出て、音を収録したわけだ。やっぱり音楽の未来はスタジオの外だと思うんだよな。
『イノセンス』の感想
※ネタバレ注意!
人形と動物と子供は神である
ことの始まりは1995年に公開された『GHOST IN THE SHELL』だ。コンピュータと機械が人間と同等以上の性能を持つようになったため、『GHOST IN THE SHELL』では、人間を機械化したサイボーグが登場している。特に草薙素子は脳とゴースト(魂みたいなもん)以外の全てを機械化しているわけだが、素子からすれば、自分の脳もゴーストも見ることができないわけで、だからそもそも”草薙素子”という”何か”が存在しているかどうかすらも確証が持てない。デカルトの心身二元論について誰もが考えなければ時代が、コンピュータの登場によって到来したのだ。
そこで僕は、前回の『GHOST IN THE SHELL』の記事で「動物的な行動に回帰する流れが生まれている」ことを述べた。従来「人間らしい」と言われてきたことがコンピュータによって代替されるわけだから、動物的な行動に回帰するというのは、ある意味、当たり前の帰結である。動物的な行動とは、具体的には食事・睡眠・セックスなどである。
こんなことを書いていたのだが、案の定、『イノセンス』はそこにメスを切り込んだ作品だった。冒頭でのバトー、トグサ、ハラウェイの会話で「子供=人形」の話があった。キムとの対話シーンで「人形=神」の話があり、人形と神に並ぶ存在として動物も挙げられていた。つまり『イノセンス』の世界においては、このような図式が成り立つ。
子供=人形=動物=神>人間
この図式は、ハサウェイが言うところの「確立した自我を持ち、自らの意思に従って行動するものを人間」ということを前提にしている。また、キムに言わせれば「人間の認識能力の不完全さはその現実の不完全さをもたらし、そしてその種の完全さは意識を持たないか、無限の意識を備えるか。つまり、人形あるいは神においてしか存在しない」ということらしい。そして動物も意識を持っていないと考えられるし、子供もたしかにそうだろう。
生物学的に見ると、脳は大きく分けて「大脳」「小脳」「脳幹」にわけることができる。
- 大脳(思考や感情などの人間らしい機能を司る)
- 小脳(知覚と運動感覚を司る)
- 脳幹(生命維持に必要な機能を司る)
『イノセンス』の世界観を深く理解するためには、大脳と脳幹の違いについて理解する必要がある。簡単にいえば、大脳は人間で、脳幹は動物だ。人間が人間らしいのは、大脳が他の動物に比べて大きく発達しているためである。この大脳、特に前頭前野は宗教・芸術・文化など、高度な思考を可能にする部位だ。子供から大人に成長するまでの過程で、最後に成長するのが前頭前野であることから、そう考えると「子供=動物」も納得がいく。
キムの「意識を持たないか、無限の意識を備えるか」について。大脳が「意識」を司る部位である以上、意識を持たないということは大脳が発達していない状態のことを指し、つまり動物と子供なのである。一方で、無限の意識を備えるということは、無限大の知識が集約されているインターネット及びコンピュータに接続することを指す。そう、インターネットと完全に融合した草薙素子のことだ。
物語は、あたりまえの帰結に行き着く
さて「子供=人形=動物=神>人間」という図式が説明されたわけだが、僕たち人間は一体どうすればいいのか。もちろんこれも『イノセンス』の中でメッセージとして伝えられている。
孤独に歩め。悪を成さず、求める所は少なく。林の中の象の様に
『イノセンス』より引用
元々はブッダの言葉なのだが、『イノセンス』ではまず、荒巻とトグサの会話で用いられた。荒巻曰く、現在のバトーは失踪する前の少佐(草薙素子)にとてもよく似ているのだそう。そんなバトーに向けて、この言葉を送るのである(そのときバトーはいなかったけど)。
しかし「バトーが失踪する前の少佐に似ている」とはどういうことなのだろうか。『GHOST IN THE SHELL』において、ほとんど人間じゃなくなっていた草薙素子は「自分は本当に人間なのか」という疑問を抱くようになり、コンピュータと融合した先にある”何か”を知るために、人形使いと融合する決断を下してしまった。それと同じく、徐々に機械化が進んでいくバトーは、自身が恋している草薙素子という女を追いかけようとしていた。つまるところ、バトーは素子(神)と同じような存在(人形or神)になろうとしていたのだ。そう考えると、たしかにバトーと失踪する前の元子はよく似ているということになる。
そんな中、物語が進み、事件の全貌が明らかになる。愛玩用ガイノイド「ハダリ」の正体は、実際の少女のゴーストをガイノイドにダビングするものだった。それが嫌だった少女は、事件を起こすことで、ハダリの正体が暴かれることを待っていたのである。
そこでバトーは少女に対して以下のようにブチ切れた。
犠牲者が出ることは考えなかったのか。人間のことじゃねぇ。魂を吹き込まれた人形がどうなるかは考えなかったのか。
『イノセンス』より引用
このセリフは、少しおかしい。普通の人間であれば、殺された人間のことをまず第一に考えるからだ。だが、バトーは「魂を吹き込まれた人形」と言った。
このとき、バトーは少しずつ人形に近づいていく自分の人生にとても悩んでいて、だからこその「魂を吹き込まれた人形」だったのだと思う。一方で「魂を吹き込まれた人形」というのは、もはや人間のようなもので、つまり人形から人間にダウングレードするというでもあるし、事件によって破壊される人形が実質的に人間だから、少女にブチ切れたという解釈もできる。
問題は、このバトーの問いかけに対する少女のセリフだ。
だって……私は人形になりたくなかったんだもの!
『イノセンス』より引用
これは僕にとって、電気が体を走るようなセリフだった。
これまで散々「子供=人形=動物=神>人間」が説明され、かつ3DCGと手描きのキャラクターが複雑にミックスされた映像を見せられていたから、僕は頭の中がパニックになっていた。もしかしたら僕たちは、本当に人形になるべきなのかもしれない、と。
そして、そこからの「私は人形になりたくなかったんだもの!」である。神や動物や人形と同じ位置にいる”子供”が「人形になりたくない!」と言っているのだ。でも、これは至極当たり前の帰結である。僕だって、動物や人形になりたくない。素子が言うように、人形も人間になりたくないのだろう。
そのあと、バトーは素子に「今の自分を幸福だと感じるか?」と問う。それに対して素子は「懐かしい価値観ね。少なくとも今の私に葛藤は存在しないわ」と答える。当たり前だ。素子は神同然の存在なのだから。
それから素子は「孤独に歩め。悪を成さず、求める所は少なく」と述べ、それに対してバトーが「林の中の象の様に」と続く。要するに素子はバトーに対して「私のことは追いかけなくてもいい」と言っているのだ。これはバトーをあらためて振っているということでもあるし、神や人形などの上位の存在を求めなくていいということも意味している。
荒巻が言うように”望んだり生きたりすることに飽きず”、悪を成さず、求める所は少なく、孤独に歩んでいく。ときには人形を愛で、子供を愛で、動物を愛でる。
ラストで素子はバトーに「あなたがネットにアクセスするとき、私は必ずあなたのそばにいる」としている。そう考えると、僕たち人間のすぐそばには神もいるのだろう。同時にこのセリフは、バトーと素子が仮に離れ離れだとしても、その気になればいつまでもお互いを感じられる素晴らしい関係であることを示唆している。
やはり僕たち人間は、謙虚に人間らしく生きるのが吉っぽい。
さいごに
今後、コンピュータの登場によって、多くの仕事で無人化が進み、そして多くの人が路頭に迷うのではないかと考えられる。この時代では、自分の頭で生き方を考えられるようにならなければならない。具体的な答えを他者に求めてはならない。例えば、神とか。宗教とか。インフルエンサーとか。オンラインサロンとか。そういったところに答えを求めても、結局、具体的な答え(つまり生き方)を手に入れることができずに、路頭に迷ってしまう。
だから今後、『イノセンス』の世界でバトーが味わった経験を、多くの人が体感することになるだろう。バトーは、自分自身の頭で大いに悩んだ。もがき苦しんだ。そしてその果てで、多分だけど、自分の生き方をなんとなく理解できたのだと思う。
あくまでも「孤独に歩め。悪を成さず、求める所は少なく。林の中の象の様に」なのである。