今回は『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に(以下、エヴァ旧劇場版)』について語っていく。
『新世紀エヴァンゲリオン』はGAINAXによるアニメオリジナル作品で1995年秋クールから2クールかけて放送された。
そして1997年に劇場版となる『エヴァ旧劇場版』が公開される。アニメ制作はGAINAXとProduction I.Gが担当した。
『エヴァ旧劇場版』の評価
※ネタバレ注意!
作画 | 94点 |
世界観・設定・企画 | 93点 |
ストーリー | 90点 |
演出 | 92点 |
キャラ | 90点 |
音楽 | 90点 |
作画
一応アニメ制作会社がProduction I.Gに変更され、かつ劇場版ということで予算を確保できていること、そして映画館上映を想定していることで、作画のクオリティは全体的にかなり向上している。特に人類補完計画が発動してからの描写は圧巻だった。1997年制作の出来ではない(いい意味で)。
世界観・設定・企画
今回の『エヴァ旧劇場版』で、ゲンドウの目的が明らかになり、やはり『エヴァ』に登場する大人たちが、いかにエヴァに頼っているかがわかる。
また、人類補完計画の世界観が素晴らしい。多分、庵野監督が鬱状態だったことが要因として大きく、じゃないとあんな世界は生まれない。
ストーリー
25話と26話をリメイクした物語で、具体的には、人類補完計画が進行する様子が映像化されているのと、それに対してシンジがどのような選択を選ぶのかが描かれる。グロテスクなシーンとか死亡者も多いが、人類補完計画が発動してしまえば、そんなのは関係ない。
そして全体として極めてネガティブだったが、最後は希望が少しだけ見える終わり方だった。
個人的には、シンジの葛藤の描き方が、構成として見事だと感じた。
演出
人類補完計画後の「現実と夢の境界線がよくわからない状態」を表現するのに、現実世界を用いたのは庵野監督らしい。グロテスクなシーンはしっかりグロく、人類補完計画のシーンも壮大だった。でもこんなの描いてたら頭がバグってきそうだ。
キャラ
人類補完計画がもたらす快楽に溺れるキャラがほとんどの中で、シンジ(とアスカ)だけが自分を取り戻すシーンは、ちょっと感動した。
ミサトもシンジのために命を使い切っていて、これもまあ悔いのない終わり方。一方でリツコとゲンドウはパッとせず、これがそのまま新劇場版に繋がるんだと思う。
音楽
クライマックスで用いられた挿入歌の『Komm, süsser Tod』がとても心地よかった。全体としてクラシック多めで、荘厳さを感じさせられる。
『エヴァ旧劇場版』の感想
※ネタバレ注意!
人類補完計画に「自分」はない
『エヴァ旧劇場版』では、人類補完計画が実施される一部始終が描かれた。TVアニメに比べて、圧倒的に予算規模が違うので、ちゃんと映像化されていて、とにかく凄かった。映画館で見たかった。
さて、人類補完計画は「人と触れ合うのが怖いんだったら、いっそのこと人類全体で溶け合ってしまおう」というものだ。最近だと『攻殻機動隊SAC_2045』でも同じような展開があった。
『新世紀エヴァンゲリオン』は「ハリネズミのジレンマ」をベースに、人と人との距離感を探っていく作品なのだが、いっそのこと全体で溶け合ってしまえば、もはや距離感など考える必要もなく、身体を一つにするセックスのような快楽が得られる。
一見するとこれは幸せそうなのだが、最終的にシンジ(とアスカ)は、人類補完計画に頼らない生き方を選ぶ決断をした。なぜなら人類補完計画に「自分」が存在しないからだ。
ATフィールドが存在しない完全にシームレスな世界では、自分と他人を区別することができない。それ即ち、自分が存在しないということである。自分自身の存在価値みたいなものが、人類補完計画から得られることは決してないのだ。それに気づいたシンジとアスカは「ATフィールドは必要だ!」と思い、人類補完計画から脱する決断をしたのだ。
これはとてもおもしろいジレンマだと思う。ATフィールドが人を傷つける道具である一方で、自分を守ることに繋がるどころか、自分の存在意義まで確立しているのだ。そうなると「ハリネズミのジレンマ」は泥沼同然だが、それも含めて僕たちは生きていかなければならない。
視聴者を盛大に皮肉る演出
人類補完計画によって人類が溶け合う中で、シンジに葛藤シーンが、現実世界の写真・映像を用いて描かれた。その中には、映画館で『新世紀エヴァンゲリオン』を視聴する観客の様子も映し出されていた。その中でシンジとレイが以下のようなやり取りをする。
シンジ「わからない。現実がよくわからないんだ」
レイ「他人の現実と自分の真実との溝が、正確に把握できないのね」
シンジ「幸せが何処にあるのか、判らないんだ」
レイ「夢の中にしか、幸せを見いだせないのね」
シンジ「だからこれは現実じゃない。誰もいない世界だ」
レイ「そう、夢」
シンジ「だから、ここには僕はいない」
レイ「都合のいい作り事で現実の復讐をしていたのね」
シンジ「いけないのか?」
レイ「虚構に逃げて、真実をごまかしていたのね」
シンジ「僕一人の夢を見ちゃいけないのか?」
レイ「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』より引用
言わば人類補完計画は現実と虚構が融合した世界であり、現実逃避という概念が存在しないのである。とはいえ、現実と混ざった虚構に逃げているのは間違いなく、だから人々にとって心地よいのだ。
でも実際問題として、現実から逃げ切ることほあできない。なぜならレイの言うとおり「現実の埋め合わせ」だからだ。つまり、虚構(夢)は現実に内包されているのである。虚構に浸る行為そのものが現実なのだから、やはり現実世界から逃げることはできない。
そしてそれを、映画館で『新世紀エヴァンゲリオン』を鑑賞する観客に当てはめて皮肉っているのだ。『新世紀エヴァンゲリオン』がもたらした第三次アニメブームの中で、たくさんのオタクが誕生し、彼らは虚構を強く信じた。でも、それすらもただの現実なのだと綾波レイは言うのだ。
それからシンジとレイのやり取りは、以下のように続く。
シンジ「じゃあ、僕の夢はどこ?」
レイ「それは、現実のつづき」
シンジ「僕の現実はどこ?」
レイ「それは、夢の終わりよ」
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』より引用
やはり夢は所詮は現実の続きに過ぎない。では、現実はどこにあるのか。それをレイは「それは、夢の終わりよ」と回答する。たしかに観客目線で言えば『新世紀エヴァンゲリオン』の劇場版が終わったあとは、再び現実の世界に戻る。
そうなると、夢の中に幸せを見出すのではなく、現実の中に幸せを見出した方が絶対にいいということになる。この思想はスタジオジブリ作品にも見受けられるわけだけど、やはり宮崎駿の下にいただけあって、庵野監督も「虚構の中に幸せがないこと」をちゃんと指摘してくれているのだ。
アスカの「気持ち悪い」について思うこと
『エヴァ旧劇場版』におけるアスカの「気持ち悪い」は、色々な解釈がある。
まず挙げられるのがシンジのオナニーに対してのアンサーだ。たしかにアレは気持ち悪い。何が気持ち悪いかって、別にアスカに手を出すわけでもなく、ただただアスカを眺めながらオナニーしているのが気持ち悪いのだ。もし、アスカにキスしたり「好き」って言ったりすれば、ちょっとは違ったのに。そして、それをやり直したのが新劇場版だと思う。
もう1つの解釈としては、アスカなりの優しさだ。結局、アスカがあれだけシンジに対して暴言を言いまくっていたのも、シンジの生活を少しでも明るくするためだった(というのは建前で実際はアスカが素直になれなかっただけ)。んで、その延長線が「気持ち悪い」である。
この解釈の場合、『旧劇場版』の終わり方は、極めてネガティブである一方で、比較的前向きなものだったと考えられる。これからシンジとアスカはとても苦労するだろうが、それでも生きることをやめることはないだろう。
さいごに
とりあえずもう一度『新劇場版』を視聴し直そうと思う。TVアニメと旧劇場版で、庵野監督や制作陣が何をやりたいのかがよく理解できた。『新世紀エヴァンゲリオン』はSFロボット作品で、キリスト教の聖書をベースにした世界観により、多くの考察が生まれているけど、そんなことよりもっと大事なものが、この作品にはある。