【かぐや姫の物語感想】ジブリと高畑勲だからこそ実現した美しい物語

かぐや姫の物語

今回は『かぐや姫の物語』について語っていく。

『かぐや姫の物語』は『竹取物語』を原作とする長編アニメーション映画で、2013年に公開された。アニメ制作はスタジオジブリ、監督は高畑勲が担当した。

目次

『かぐや姫の物語』の評価

※ネタバレ注意!

作画100点
世界観・設定95点
ストーリー97点
演出97点
キャラ95点
音楽94点
※個人的な評価です

作画

これはもう100点満点にしないといけないだろう。大赤字覚悟で制作費を投下し、高畑勲作品の極致とも言える作画に到達したと思う。海外で主流の3DCGアニメでは絶対不可能な映像表現で、日本人(というか高畑勲)だからこそできる映像表現だと思う。こんな企画が実現したことが本当に夢のようなことだし、これを実質無料で楽しめるんだから、本当に素晴らしい時代になったものだ。

世界観・設定

『竹取物語』という日本最古の物語を現代アニメーション技術で映像化。『竹取物語』の世界観を劇的にリメイクしているわけではなく、作画の情報量がそこまで多くないことから『竹取物語』のストーリーに集中できる。背景と作画が高いレベルで融合していることから、本当に「動く一枚絵」を見せられている気分になる。

ストーリー

『竹取物語』のストーリーを崩し過ぎず、その中で現代社会に向けたメッセージをやや強調した構成になっている。137分という尺があっという間に感じられるぐらいおもしろくて、というかこんな物語が大昔に存在していたことが本当に信じられない。現代でも通用する極めて普遍的なストーリーで、あと50年は『かぐや姫の物語』が視聴され続けるんじゃないかなぁと思う。

演出

演出もぶっとんでる。人によっては最初から最後までボロボロ泣くんだろうけれど、それぐらい高いレベルで演出がこだわり抜かれている。制作期間が8年ということだけれど、ちょっと納得できてしまうほどだ。この演出を実現するには、メインスタッフだけでなく、原画マンや動画マンにも高いレベルが求められることだろう。

キャラ

『かぐや姫の物語』はキャラもよくできている。特に、ヒエラルキーで脳が支配された男性陣のクソッタレな感じが、めちゃくちゃに良い。それぞれのキャラクターに役割があって、それでいて軸がブレることもない。

音楽

久石譲としては初めての高畑勲作品。そしていい意味で、久石譲の存在感が薄い。印象的なメロディーとかはほとんどなくて、あくまでも作画を邪魔しない、でもそれでいて美しいメロディーが延々と紡がれていった。

『かぐや姫の物語』の感想

※ネタバレ注意!

大赤字覚悟のトンデモ企画を誰もが視聴できる幸せな時代

『かぐや姫の物語』は、一般的なアニメとは大きく異なる作品だから、賛否両論があるのは当たり前だろう。だがシンプルに、制作費50億円以上を注ぎ込んだトンデモ企画が本当に実現したことが夢のようなことだし、その夢のような作品を、せいぜい2,000円程度のチケットで視聴可能で、なんなら今だったらVPNを使えば超低額で視聴できるんだから、本当に素晴らしい時代になったと思う。

『かぐや姫の物語』は、映像表現を徹底的に追求するアートアニメーションに属すると言っても過言ではない。そしてアートアニメーションは、極めて高いクリエイティビティが求められることから、基本的には「短編映画」として公開されることがほとんどである。それか長編映画だとしてもFlashアニメーションや3DCGなどを用いて、省力化することがほとんどだ。だが『かぐや姫の物語』は、最も手間がかかる方法で、それでいて最も大衆に受け入れられない作風で、クリエイティビティを追求し、長編アニメーション映画を作ってるんだから、トンデモないのである。

このトンデモ企画が実現したのは、もう純粋に、日本テレビ元会長の氏家齊一郎の個人的な出資が理由として大変大きい。『かぐや姫の物語』は「制作費50億円の興行収入25億円で大赤字!」で注目されることが多いけれど、僕の理解では、そもそも製作委員会にスタジオジブリは参加しておらず、大半のお金が日本テレビ(氏家齊一郎)から出資されているため、スタジオジブリに金銭的なダメージはない。それどころか制作費50億円を手に入れているんだから、ジブリとしては「作りたいものが作れてウハウハ!」という感じである。

「氏家齊一郎が高畑勲の新作が見たい!」というところから始まった企画が、最終的に、まるで夢のような企画になってしまったのだ。こんな仕事ができたんだから、高畑勲も悔いがないんじゃないかなぁと思う。

そして、こんな夢のような企画をお裾分けで楽しめる僕たちアニメオタクは、本当に幸せ者である。

幸せの定義

『竹取物語』の原作がどのようなメッセージ性があるのかはわからないけれど、少なくとも『かぐや姫の物語』におけるキーワードは”幸せ”だと思う。

『かぐや姫の物語』では、竹から生まれたかぐや姫が「皇貴の姫君」として男たちに囲まれるストーリーとなっている。これは「貴族になることが幸せだ!」とする翁の意向が大変大きく、それにかぐや姫がどんどん巻き込まれてしまうのだ。多分、これは原作『竹取物語』とほぼ同じ展開である。

結局かぐや姫は、貴族社会のヒエラルキーが定義する”幸せ”に耐えられなくなり、月に帰ってしまう。ここから得られる教訓は非常に多い。翁のように自分の考え方を他人(子ども)に押し付けるのは良くないんだろうし、偉くなることが幸せに直結するわけではないというメッセージもあるだろう。

だが『かぐや姫の物語』でおもしろいのが、幸せの定義がある程度明確に説明されていることである。そこで重要になってくるのが捨丸というオリジナルキャラクターだ。かぐや姫が、捨丸たちと過ごしていた時間そのものが幸せであり”生きる”ということだった。これは原作『竹取物語』にはないエピソードであり、高畑勲監督がこれまで制作してきた作品とも共通するメッセージである(特に『おもひでぽろぽろ』)。そう考えると、高畑勲とジブリが『竹取物語』の映像化を手掛けたのは、非常に意義のあることだと思えてならない。

当時の人々は『竹取物語』を読んで何を想ったのだろう

僕が『かぐや姫の物語』を視聴していて気になったのは、平安時代の人々は『竹取物語』を読んで、一体何を想ったのだろうか、ということである。

『竹取物語』は、言ってしまえば貴族社会に対するアンチみたいなもので、当時の識字率を考えると、貴族がメインターゲットだと思う。では、貴族社会に浸っている方々が『竹取物語』を読んで、一体何を想ったのだろうか。「あぁ、やっぱり貴族であることが幸せとは限らないよな」とか想ったのだろうか。そしてその思想は、貴族社会全体でタブーにはなり得なかったのだろうか。純粋に1つの芸術として、受け入れられたからこそ、長きにわたって『竹取物語』は受け継がれてきたということなのだろうか。

僕は、これが気になってしょうがないのだ。

ただでさえ現代社会においても「大企業」とか「公務員」とか「学歴」とかの超絶謎なヒエラルキーに頭を焼かれている大人及び子どもがわんさかいるわけで、おそらくそういった人々は手遅れで、だから『かぐや姫の物語』の興収は25億程度なのだろう。一方で『竹取物語』は1000年以上受け継がれてきたわけで、もしかしたら古代の人々の方が、柔軟性のある考え方ができたのかもしれない。

でも実際に貴族社会というか上下関係がハッキリしたヒエラルキー社会は、そのトップが天皇か将軍かで変化はしたけれど、基本的に1000年以上変わっていない。そして厳密に言えば、現代社会もヒエラルキーに支配されている。僕は別にヒエラルキー社会を悪いと言っているのではなく「ヒエラルキーが幸せであるかどうかを左右する」という思想が問題だと考える。

生活保護受給者は、本当に不幸なのか?

ブルーカラー層は本当に幸せになれないのか?

絶対にそんなことはない。『借りぐらしのアリエッティ』から僕が得た教訓である”安全と冒険のバランス”という点でも、必ずとも、ヒエラルキーの上位に属する人々が幸せであるとは限らない。そしてそれは結局、人によるんだろうなぁと思う。どのヒエラルキーにいても冒険できるかどうか。それが大事なんじゃないかなぁと思う。

まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
まわって お日さん 呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
春 夏 秋 冬 連れてこい
春 夏 秋 冬 連れてこい

『かぐや姫の物語』の『わらべ唄』より引用

さいごに

『かぐや姫の物語』は、現状でジブリ最高傑作になってくるだろう。制作費50億円投下したんだから、当然と言えば当然なのだけれど、日本最古の物語『竹取物語』を、世界最高のアニメスタジオとアニメ監督が映像化したのだ。それでいて、これまでジブリ作品が手掛けてきた作品のメッセージ性も『かぐや姫の物語』に凝縮されているように感じる。

だから『かぐや姫の物語』を視聴しないのは、完全に損だと僕は考える。50億円で制作されたアニメを格安で見れる時代に生きているんだから、そこら辺の異世界転生アニメを見るんじゃなくて『かぐや姫の物語』を視聴した方がいいんじゃないかなと思う。というこどで、僕は積極的に『かぐや姫の物語』を布教しようと思う。

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