今回は『アリスとテレスのまぼろし工場』について語っていく。
『アリスとテレスのまぼろし工場』はMAPPA制作のオリジナル劇場アニメで2023年9月に公開された。監督は岡田麿里が担当し、『さよならの朝に約束の花をかざろう(以下、さよ朝)』のメインスタッフが集結したとのことだ。
『アリスとテレスのまぼろし工場』の評価
※ネタバレ注意!
作画 | 88点 |
世界観・設定 | 85点 |
ストーリー | 85点 |
演出 | 80点 |
キャラ | 80点 |
音楽 | 80点 |
作画
『さよ朝』とメインスタッフが一緒とはいえ、アニメ制作がP.A.WORKSからMAPPAに変更されているのが特徴。ただし、MAPPAも十分にリソースのあるアニメスタジオだ。作画のクオリティは十分に高かった。
世界観・設定
“変化を拒む世界”というのがちょっと直接的すぎる気がするけど、そこからの展開が他作品とは少し違ったので、おもしろかった。また、P.A.WORKS作品でお馴染みの東地和生が美術監督を務めていることもあり、背景はほぼ完璧。美しかった。
ストーリー
割と長めの尺だったけれど、あっという間だった。普通、”変化を拒む世界”でストーリーを展開しようと思うと、”変化にチャレンジする”みたいな方にストーリーが動くのだけれど『アリスとテレスのまぼろし工場』はむしろ逆の側面が強かった。正直、メッセージ性はあまり好きじゃないのだけれど、客観的に見て、恋愛アニメとしては非常に優れていると思う。
演出
列車の上で、睦実が五実に宣戦布告するシーン(多分、クライマックス)がかなり良かった。演出は全体的に繊細で、コミカルな描写は少ない。が、これが作品の世界観構築に大きく貢献している。脚本家が監督を務めると、多分、自然と繊細さが強くなるんじゃないかなぁと推測してみる。
キャラ
キャラクターからも割と直接的にメッセージを感じてしまったけど、先ほども述べた通り、他作品とは少し違った展開なので、面白かった。主人公の正宗は女性っぽい髪型をしていて、実際に作中でもそれをイジられるのだけれど、これには意味があると思う。ストーリー全体を通して、非常に女性的であり、最後に正宗が下した決断も、かなり女性的だったと個人的に感じたからだ。
音楽
主題歌はまさかの中島みゆき。タイトルは『心音』。非常に良い曲だった。
『アリスとテレスのまぼろし工場』の感想
※ネタバレ注意!
アリスとテレス
『アリスとテレスのまぼろし工場』は実のところ、世界観が明確に説明されていない。まぼろし工場は、きっとあの製鉄所のことだと思うが、最終的に、まぼろし工場が生み出した”まぼろしの世界”から脱出する方法も描かれなかった(ここが他の作品とは全く違う)。アニメ作品は、高校生を主人公に「変わるか変わらないか」の葛藤を描くことが多く、『アリスとテレスのまぼろし工場』も同じような作品だと思っていた。けど、全然違った。「変わるか変わらないか」の葛藤とは違うところに、物語の根幹があるのだ。
『アリスとテレスのまぼろし工場』のキーワードは”痛み”だ。「痛みがあることが生きるってことなんだ」というメッセージ性を強く感じる。変化が許されない退屈すぎるまぼろし世界の中で、正宗たちが痛みを追求する遊びを繰り返していたのも、人々はなんだかんだで”痛み”を求めているから。具体的には変化を、もっと具体的に言えば恋愛を、人々は求めていたのだ。僕たち人間は現実世界の中で”苦痛”を回避しようとするけど、でも、生きるってことは痛いってことなんだから、”苦痛”も受け入れて、どんどん変化させていこうよ! 多分、僕が感じたメッセージ性は、大まかに言うとこんな感じだと思う。
ぶっちゃけ、あまり好きじゃない
僕は『アリスとテレスのまぼろし工場』があまり好きじゃない。それは、あまり好きじゃない人によく見られる「よくわからなかった」というものではないことだけは、あらかじめ述べておく。
『アリスとテレスのまぼろし工場』は、確かに少々難解な部分はあった。けど、少なくとも恋愛アニメとしては素晴らしかった。また、世界観やキャラクターが直接的すぎる印象を受けたけれど、それでも”まぼろしの世界”の解釈や、それに対するキャラクターの動かし方は、他の作品にはない魅力だ。何よりも”まぼろし工場”というSF設定と、リアリティのある恋愛描写をミックスさせた岡田麿里監督のアイデアが素晴らしい。「あぁ、たしかにこれは岡田麿里らしいな」と思わされたし、他のアニメ監督(特に男性監督)には作れない作品だったのは間違いない。非常に女性的で、それでいて少し挑戦的なアニメ作品は、実はそこまで多くないので、こういう作品はどんどん出てきて欲しいと思う(この領域は岡田麿里と山田尚子だけ)。
では、何が好きになれないのか。それは『アリスとテレスのまぼろし工場』が伝えようとしているメッセージ性だ。本作から僕は「痛みを受け入れよう」というメッセージを受け取った。「痛みを受け入れる」というのは人が生きていく上で重要だと思うが、なんと言うか、ドーパミン的な痛みというか、依存性の強い痛みというイメージを感じてしまった。『アリスとテレスのまぼろし工場』は間違いなく”恋愛”アニメで、”恋愛”アニメとしては優れているが、そもそも”恋愛”という概念そのものが、はたして人々を良い方向に導いてくれるのか、という考えを抱いてしまった。
そもそも”恋”と”愛”は、脳科学的に分泌されるホルモンが異なる。”恋”している状態はアドレナリンやドーパミンなどの中毒症状を引き起こす反応であることに対し、”愛”している状態はオキシトシンやセロトニンが活発になる状態なので、中毒症状を引き起こすことがない。”恋”と”愛”は、科学的反応を見ると本来は全くの別物だが、この2つを混同させたのが”恋愛”だ。この”恋愛”という概念は日本特有のものであり、恋愛ソングの実態は、人々を中毒症状でメンヘラ沼に落とし込むもので、だからJ-POPは恋愛ソングだらけになっている。
愛とはいったい何のことを指すのかというと、これは”慈愛”のことである。英語で表記される「Love」はキリスト教でいうところの「慈愛」のことで、親が子を慈しむような感情のことを指す。一方の恋は、自分が相手のことを好きである気持ちのことで、これは私的な感情だ。つまり、愛は利他的で、恋は利己的なのである。だから本来、この2つは分けて考える必要がある。
個人的には、”恋”からは少し距離を離して、もっと”愛”を知るべきだと思う。なぜなら”恋”とは、言ってしまえば報酬系を煽る活動であるためだ。現代はSNSや高糖質食、そして恋愛など、報酬系を煽るモノが多すぎる。なぜ報酬系に依存性があるのかというと、それは快楽と苦痛がシーソーのような関係になっているためである。快楽を追求すると、そのあとに苦痛が襲いかかってくる。そして、この苦痛に嫌気がさして、また快楽へと手を伸ばす。お酒もドラッグもタバコもギャンブルも、そして恋も、全てはこの苦痛と快楽のシーソーの関係のせいで、沼にハマり込んでしまうのだ。
『アリスとテレスのまぼろし工場』から僕は、この報酬系がもたらす中毒症状を「どんどん促していこう!」というメッセージを感じてしまった。「痛みを感じていこうではないか!」というやり方、極論を言えば、リストカットを促すようなメンヘラ的なやり方が、僕はあまり好きになれなかった。
でも、これは本当の本当に推測にすぎないけど、多分、岡田麿里はこれをわかっているのではないかと思う。脳科学的な”恋”と”愛”の違いは一旦おいておいて、少なくとも岡田麿里は、”恋愛”と”慈愛”の違いを知る脚本家だと思う。そうじゃないと、慈愛に満ちた素晴らしい作品である『さよ朝』を作れるはずがない。そして何よりも『アリスとテレスのまろぼし工場』の終盤。正宗と睦実が五実を現実世界に送り出そうとしたきっかけになった感情は、作中で唯一登場した”慈愛”だったのではないだろうか。
僕の記憶が正しければ『アリスとテレスのまぼろし工場』の中で、”好き”というセリフは何度も登場したけど”愛してる”というセリフは一切登場しなかった。だから岡田麿里は多分、”恋愛”と”慈愛”を使い分けていると思う。
とはいえ、やはり報酬系を煽りメンヘラ沼にハマりそうになる『アリスとテレスのまぼろし工場』は、あまり好きになれない。そしてなんだなんだで、この作品を制作したのは、報酬系を煽る感動があまり好きじゃないP.A.WORKSではなく、特にその辺の思想が感じられないMAPPAだった。また、『アリスとテレスのまぼろし工場』の製作委員会に電通が参加しているのも気になるところだ(個人的に、電通が製作委員会に参加している作品が、あまり好きになれない傾向がある)。
さいごに
僕はついつい『アリスとテレスのまぼろし工場』が伝えようとしているメッセージ性を否定的に見てしまったけれど、そもそも本作は実に様々なメッセージを感じられる作品なので、きっと見る人によって印象が異なることだろう。
岡田麿里は近年、劇場アニメの制作に注力していることから、本作の興収次第だと思うけど、次も岡田麿里監督の作品が見られるのではないだろうか。でも個人的には、もう一回、超平和バスターズの作品が見たい!