【ペルリンプスと秘密の森感想】大人になると忘れてしまう力

ペルリンプスと秘密の森
星島てる
アニメ好きの20代。ライターで生活費を稼ぎながら、アニメ聖地の旅に出ている者です。アニメ作品の視聴数は600作品以上。

今回は『ペルリンプスと秘密の森』について語っていく。

『ペルリンプスと秘密の森』は、ブラジルのアニメ監督であるアレ・アブレウによる作品で、2023年に日本語字幕版が劇場公開された。

目次

『ペルリンプスと秘密の森』の評価

※ネタバレ注意!

作画90点
世界観・設定85点
ストーリー85点
演出80点
キャラ80点
音楽88点
※個人的な評価です

作画

僕の勝手な印象だが、いわゆるアートアニメーションは大規模な予算がなかなか取れないから、比較的クオリティが落ちる傾向がある。その代わり「芸術性が追求される」という感じだ。

だが『ペルリンプスと秘密の森』は、非常にクオリティが高い。手描きなのかFlashなのかが、良い意味でよくわからないし、日本式アニメでは絶対に見られないような背景の描き方をしている。

そして何よりも色彩感覚が素晴らしく、どこか南米を感じさせる配色なのも不思議だ。特にクラエとブルーオが2人で一緒に瞑想するシーンが印象的。でも確かに瞑想すると、ああいう感じの映像が瞼の裏に映し出されるよな。

世界観・設定

色々と不思議な世界観だった。ペルリンプス、秘密の森、太陽の国、月の国、巨人が一体何を示しているのか。特にペルリンプスと秘密の森は、見た人の解釈次第で答えが異なるかもしれない。

また『ベリルンプスと秘密の森』は、基本的に子ども向けに制作されているように思う。それでいて心の奥底に刻みつけてくるようなパワーも感じた。

ストーリー

2023年、僕は様々なアニメを見てきたつもりだけれど、その中でも『ペルリンプスと秘密の森』が、僕の中で最も印象に残るエンディングを迎えた。

実のところ、僕自身がやや睡眠不足だったのと、劇伴が心地良かったこともあり、序盤・中盤に瞼を閉じることがあったのだけれど、あのエンディングを見せられたおかげで、最後のエンドロールはずっと冴えっぱなしだった。

演出

個人的に好きなのは、カマドドリのジョアンが登場するシーン。ジョアンの動きとセリフ回しが滑稽だったのと、ジョアンがクラエとブルーオをこっそり見ているときの画面演出が印象的だった。あれは真似したいな……。

キャラ

基本的にクラエとブルーノの2人が主要人物。一応、巨人とかジョアンが登場するけれど、やはりメインはクラエとブルーノだ。それぞれ、住んでいた文化圏が異なることもあり、最初は対立するも、共に「ペルリンプス」を探していく過程で、少しずつ親睦を深めていく。

おそらく日本人の多くは、どちらかと言えばクラエに該当するのだろうけど、ブルーノの考え方も非常に参考になった。

音楽

劇伴は『ペルリンプスと秘密の森』の最大の魅力の1つだ。終始、音楽に没頭できた。秘密の森の自然味溢れる音や、マインドフルネスのシーンの思わずトリップしそうになる音楽とか。色彩豊かな作画との相性が抜群だった。

『ペルリンプスと秘密の森』の感想

※ネタバレ注意!

太陽の国と月の国

ラストでも明らかになった通り、クラエとブルーオは元々人間で、文化圏が異なるようだった。ここで一旦、クラエ(太陽の国)とブルーオ(月の国)について整理しようと思う。

まず太陽の国は、テクノロジーが発展しており、太陽の公転周期に基づく太陽暦が用いられている。実際、クラエは、最先端技術を凝縮したかのような機械を持っていて、まるでSNSに夢中な現代人のように、逐一、良い報告と悪い報告を記録していた。

一方で月の国は、精神性に優れており、毎晩、月の女王が素敵な物語を語ってくれるのだそうだ。太陽の国が太陽暦だから、おそらく月の国は、月の周期に基づいた太陰暦が用いられていると考えられる。そしてブルーオは、時間があればすぐに瞑想に取り掛かっていた。

以上のことを考慮すると、太陽の国は科学の国であり、月の国は宗教の国なのだと思う。そして歴史的に、科学と宗教は常に対立してきた概念だ。『ペルリンプスと秘密の森』の中で、太陽の国と月の国が対立しているのも納得である。

ペルリンプスの僕なりの解釈

『ペルリンプスと秘密の森』は、クラエとブルーオがペルリンプスを探す物語だ。そして最後の最後まで、ペルリンプスが一体なんなのかは明確に語られておらず、本作の監督を務めたアレ・アブレウも、視聴者の解釈に任せている。

作中に登場したペルリンプスの概要は以下の通りである。

  • ペルリンプスが森を守る唯一の方法
  • ペルリンプスは光として、秘密の森に入り込んでいる
  • ペルリンプスは平和をもたらす謎の生物
  • ペルリンプスは近くにあるようで遠くにある
  • ジョアンは、ペルリンプスに呼ばれて秘密の森に帰ってきた

本作の視聴時、僕はまず、ペルリンプスを”正義”だと考えてみた。だが、正義はしっくりこない。正義はいい意味で使われることが多いが、一方で、正義は他人にふりかざすものである。つまり、争いというのは「正義VS正義」の構造なわけで、だから正義がペルリンプスに該当するのは違う。

そこで、僕はペルリンプスを”共生”と考えてみた。『ペルリンプスと秘密の森』の終盤に、クラエとブルーオが”出会いの場”に戻った際に喧嘩するシーンがあった。そして2人は「なぜ僕たちは喧嘩をしているんだ」と気づき、争いには大した理由がないことを知るシーンがあった。これは、クラエとブルーオの冒険における1つのゴールでもあった。そう考えると「ペルリンプス=共生」の図式は、そこまで間違っていないように思える。

しかし、それだけではまだ完全に伏線回収できない。たしかに”共生”は、森を守る唯一の方法だと思うが、”近くにあるようで遠くにある”とか”謎の生物”というのがしっくりこない。

だが1つ、これはほぼ間違いなさそうなのが、ペルリンプスはクラエとかブルーオとかジョアンのことだということだ。もっと言えば、ペルリンプスとは、誰もが内に秘めている”希望の力”とか”好奇心”とかのことなのだと思う。しかしおそらく、大人(巨人)になってしまうと、その力のことを忘れてしまい、同時に”秘密の森”の存在も忘れてしまうのである。一方で、大人から老人になると、心を取り戻したのかよくわからんが、ジョアンのようにペプリンプスのことを思い出すこともあるのだと思う。

たしかに、大人にはなくて、子どもにしかない考え方というか信念みたいなものは存在する。しかし、それは中々言語化できないわけで、それをペルリンプスという形で映像にしたのが本作なのではないだろうか。

さいごに

アニメーション作品と言うと、どうしてもアジア・アメリカ・ヨーロッパが中心のように思えるけど、本作はブラジルで制作されたアニメだ。南米のアニメということで、南米らしいカラフルな作画となっていて、これはたしかに日本では作れそうにない作品だった。

以上のことを考えると、やはり日本のアニメーションは、もっと外に羽ばたいた方がいいのではないだろうか。海外にある優れた材料を使って、日本式アニメとして料理するのが、一番美味しいと僕は思う。例えば『ゆるキャン△』をアイスランドでやってみるとか。料理系アニメをサンセバスチャンを舞台にやってみるとか。今は、アートアニメーションと商業アニメーションの中間ぐらいの調理法で、かつ世界中にある材料を使うのが、一番美味しいと思うな。

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