【ミュウと波導の勇者ルカリオ感想】波導とは一体なんだったのか

ミュウと波導の勇者ルカリオ
星島てる
アニメ好きの20代。ライターで生活費を稼ぎながら、アニメ聖地の旅に出ている者です。アニメ作品の視聴数は600作品以上。

今回は『劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション ミュウと波導の勇者 ルカリオ(以下、ミュウと波導の勇者ルカリオ)』について語っていく。

ポケモン映画第8作目となる『ミュウと波導の勇者ルカリオ』は、2005年に上映された。アニメ制作はOLMが担当している。

目次

『ミュウと波導の勇者ルカリオ』の評価

※ネタバレ注意!

作画82点
世界観・設定75点
ストーリー75点
演出75点
キャラ75点
音楽75点
※個人的な評価です

作画

作画は、良い意味で上手くサボっている。特に上手かったのは、OPのポケモンバトルのシーン。ヨリの構図を活用することで、カロリーを抑えている。ただ、OPが挿入されるアクションシーンが個人的に楽しみだったので、ちょっと残念。

それとピカチュウたちが屋根裏部屋で遊ぶシーンは中々良き。1番よく動いていたのではないだろうか。やはりポケモン映画は、戦闘シーンよりも日常シーンの方が気合入ってる気がする。

世界観・設定

作中で登場する城のモデルはドイツのノイシュヴァンシュタイン城らしい。なんだかんだで世界的な名所を舞台にするのがポケモン映画の魅力の一つ。

また、”はじまりの樹”は北欧神話のユグドラシルがモデルとなっている。まるで動物のように動き、白血球的な粘液が人間を排除しようとする設定が面白い。

ただ肝心の”波導”がよくわからない。「波導は我にあり!」って子どもの頃は「カッコイイ!」と思ってたけど、よくよく考えてみると意味不明だな。まあこの辺は、キッズアニメだからむしろOK。……いや、もしかしたら波導にも深い意味がある?

ストーリー

序盤でルカリオとアーロンが引き離されたり、ピカチュウとサトシが引き離されたり、ルカリオとサトシが喧嘩したりなど、全体的に険悪なシナリオで物語がスタートしている。

演出

『裂空の訪問者デオキシス』で一旦ポップ寄りになったものの、『ミュウと波導の勇者ルカリオ』にて、また感動寄りの演出に戻った。全体的に切ない雰囲気がある。

また、なんだかんだでロケット団の動きや使い方が面白い。基本的にストーリーには関わらないロケット団。だからこそギャグ重視の立ち位置で、とにかくギャグに振り切っている。動きもコミカルだ。

キャラ

本作で初めて、伝説でも幻でもないポケモンがメインポケモンとなった。まあでもルカリオの見た目は、どう見ても伝説のポケモンそのもの。めちゃくちゃカッコいいもん。アブソルやゾロアークのようなものだ。

それと前作からの連続でベッキーが声優に起用される。たしかに僕が小学生の頃、ベッキーを知らないキッズはいなかった気がする。

音楽

主題歌はPUFFYの『はじまりのうた』。普通に名曲。しかも、海外ウケもあるしね。

『ミュウと波導の勇者ルカリオ』の感想

※ネタバレ注意!

波導って結局、なんなの?

『ミュウと波導の勇者ルカリオ』のキーワードは、やはり”波導”だ。一応、作中では「氣」や「エネルギー」のようなものだとされている。

確かにその通りなのだが、しかし、わざわざ「波導」と呼ぶのはなぜなのだろう。

ここで重要なのは、ルカリオやアーロンと同じように、サトシも波導使いのポテンシャルがあるということだ。

ではなぜサトシに波導使いのポテンシャルがあるのだろうか。具体的な理由はよくわからないが、少なくともサトシは、ピカチュウと意思共有をしているような言動を取ることがよくある。それは本作に限った話ではなく、ずっと前の段階から、サトシは間違いなくピカチュウと繋がっていた。

この繋がりの力そのものが、波導なのではないだろうか。そう仮定すると、ルカリオとアーロンに波導の力があるのも納得がいく。

そもそも『ミュウと波導の勇者ルカリオ』という作品は、ポケモンと人間の繋がりを意識したストーリーだった。サトシとピカチュウ、アーロンとルカリオはもちろんのこと、ハルカ、タケシ、ロケット団も、自分よりポケモンを大切にするような行動が見受けられた。

初期のポケモン映画は、ポケモンと人間の関わり方が意識されていたように思える。だが最近は、関わり方というよりも、純粋に人間の悪や愚かさを描くことが増えた(環境破壊、電気への依存など)。その中で『ミュウと波導の勇者ルカリオ』は、ある意味、ポケモン映画の原点に戻った作品だったと言えるかもしれない。

やはり人間は邪悪なのか?

『裂空の訪問者デオキシス』に続いて、『ミュウと波導の勇者ルカリオ』も明確な悪役は存在しなかった。だがしかし、”はじまりの樹”が人間を排除したり、ルカリオがアーロンに失望しかけたりするなど、「人間=悪」の図式が強調されていたように思える。

元々、初期のポケモン映画は「人間=悪」のメッセージ性がとても強かった。実際、悪事を考えるのは基本的に人間で、ポケモンは利用されただけに過ぎない。

それに、人間を排除する仕組みを持つ”はじまりの樹”の中で、プテラやオムスターといった大昔のポケモンが生息しているということは、「人間がプテラなどのポケモンを絶滅させた」という考えにも行き着くのではないだろうか。だから、それを察したキッドは、”はじまりの樹”の実態を全世界に公開しない判断をしたのかもしれない。

では、やはり人間は邪悪なのかと言われると、必ずしもそうではない。たしかに、ポケモン世界において、悪は人間から生まれる。だが、人間全てが悪なわけではない。アーロンやサトシのように、ポケモンのために自分の命を懸けれる人もいるのだ。

さいごに

小学生だった当時、僕はルカリオがとても好きで、なんとしてもルカリオを手に入れるためにリオルを頑張ってゲットした思い出がある。特に「はどうだん」がめちゃくちゃカッコよくて、しかもそれなりに便利な技なので、使いまくってきた記憶がある(ガチ勢は「きあいだま」「インファイト」の方が多かった)。

そしてそんなルカリオが、2005年に生まれたポケモンということで、想像以上に古い。僕の感覚だと2010年ぐらいだった。笑

そして次は『ポケモンレンジャーと蒼海の王子マナフィ』だ。視聴次第、記事にしようと思う。

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