面白く生きれれば、それでいいよね。

有頂天家族 (1)

今回は『有頂天家族』のTVアニメ1期について語っていく。

『有頂天家族』は森見登美彦の小説が原作で、2013年夏クールにTVアニメ1期が放送された。アニメ制作はP.A.WORKSが担当している。

目次

『有頂天家族1期』の評価

※ネタバレ注意!

作画85点
世界観・設定85点
ストーリー85点
演出80点
キャラ80点
音楽80点
※個人的な評価です

作画

まず印象に残っているのは、街中を歩くエキストラの人々だ。恐ろしいことに、ほぼ全員動いていた。多分、3DCGと手描きを混ぜながら表現しているのだけれども、その区別が良い意味でわからなかった。

また、P.A.WORKSの最大の強みである優しい心情描写も相変わらず。そして有頂天家族特有のはちゃめちゃ展開の描き方も面白かった。最終話なんかは、相当のカロリーがあったと思う。

世界観・設定

森見登美彦が作り出す世界観は秀逸だし、個人的にも好きである。もちろん『有頂天家族1期』も例外ではない。四条河原町や出町柳周辺を舞台に、天狗と人間と狸の三角関係を描くというのは、発想としてぶっ飛んでいる。

その中で『有頂天家族1期』は家族愛をテーマにしていたと思う。森見登美彦作品と言えば湯浅政明監督の『四畳半神話大系』が印象的だけれど、『有頂天家族1期』に関してはP.A.WORKSで大正解だったと思う。家族愛の描き方が最高だった。

ストーリー

森見登美彦特有の言葉遣いもあり、ストーリーは一切飽きない。ギャグも面白いし、それでいてストーリー全体が深い内容だった。この絶妙なバランスが森見登美彦作品の特徴でもある。

それに『有頂天家族1期』は小説1冊を1クールでアニメ化しているので、尺に相当の余裕がある。そのおかげで、個性豊かな”地の文”も楽しむことができた。

演出

森見登美彦作品は、文章で非常にファンタスティックな演出を施す。それが映像化されたわけだけれど、やっぱりP.A.WORKSは凄い。しっかり演出していた。

例えば偽叡山電車のシーンは相当カオスだし、狸が化けるシーンもそれなりに苦労するはず。それから海星が矢三郎の前に姿を現さない様子なんかも、制作者側からしたら相当めんどくさいだろう。

だが、ほぼ完璧と言っていいぐらいに、『有頂天家族1期』を演出できていたと思う。流石に湯浅政明並みにアーティスティックとまではいかないけれど、P.A.WORKSの良さがしっかり発揮されていた。

キャラ

キャラの個性は相当に強い。『有頂天家族1期』はそれなりに登場人物が多いけれど、全員印象に残るぐらいに個性が強烈だ。

それに加えて、ヒロインも可愛らしい。たしかに弁天にはミステリアスな美しさが常に漂っているし、海星はツンが強いツンデレの感じが良い。……もちろん、お母さんも良い。

ちなみに個人的に、キャラデザもかなり好き。

音楽

OPの『有頂天人生』が森見登美彦作品らしい感じである。「楽しければいいよな!」というメッセージをビシビシ感じるスピーディーな楽曲だった。

EDの『ケセラセラ』も、弁天のミステリアスな雰囲気や作品全体の優しい雰囲気にマッチしていた。そしてこの『ケセラセラ』がfhánaの初めてのシングルらしい……。

『有頂天家族1期』の感想

※ネタバレ注意!

面白く生きれれば、それでいい

『有頂天家族1期』は相当にカオスな世界観となっている。まず天狗と人間と狸の三角関係を描いているのが良い意味で不気味だ。この設定はどのようなところからエッセンスを得ているのだろう。

それに加えて『有頂天家族1期』の主要人物である下鴨家の当主・総一郎は、金曜クラブによって狸鍋として喰われて亡くなっている。この”金曜クラブ”という怪しい響きが、なんとも森見登美彦らしい。

それで、総一郎を狸鍋で食べた人間の女性・弁天がいるのだけれど、矢三郎はその弁天に恋心を抱いている。弁天は、父親を殺した仇敵と言っても過言ではないのだが、それでも矢三郎は「狸として生きる以上、鍋になることもあろう」とちょっと開き直っている。

では、なぜここまで矢三郎は開き直れるのか。それは矢三郎が「面白く生きる」をモットーにしているからであり、そもそも狸という生き物自体が阿呆だからだ。

それに加えて、矢三郎の以下のセリフ(名言)が非常に印象的である。

世に蔓延する悩み事は大きく二つに分けることができる。一つはどうでもよいこと、もう一つはどうにもならぬことである。そして、両者は苦しむだけ損であるという点で変わりはない。

『有頂天家族』より引用

それでいくと、夷川家当主である夷川早雲の立ち位置が面白い。早雲は総一郎を狸鍋にした張本人であり、終盤でも”狸らしからぬ”言動で下鴨家を追い込んだ。実際、下鴨家の多くが「あなたは狸じゃない!」と口にしていた。

だが、これはただの狸ジョークではないように思える。本来、狸とは阿呆であり、おもしろおかしく生きる生き物だ。それこそ、悩みなんかで苦しむことはない。

しかし夷川早雲は、悩みに苦しんでいた。作中で具体的に描かれなかったが、おそらく兄・総一郎に長年嫉妬していたのだと思う。そのために、夷川早雲は面白おかしく生きることを辞め、まるで人間のように高みを目指してしまった。つまり夷川早雲は本当に、狸ではなく人間になってしまっていたのだ。

ここから学べる教訓はいくつかあるだろうが、僕はやっぱり、面白おかしく生きた方が絶対に楽しいと考える。それはたしかに動物的(狸)な生き方になってしまうけれど、それはそれでいいのではないか。森見登美彦の脱力っぷりが存分に発揮されている作品だった。

病院で死ぬぐらいなら、食べられた方がいい?

『有頂天家族1期』に限らず、森見登美彦作品ではドキッとしてしまうような名言が度々出てくる。そして『有頂天家族1期』に関して言えば、個人的に印象的だったのが淀川教授だ。

彼は「食べるということは愛するということである」をモットーに世界中のあらゆるものを食べて、そして愛してきた。そんな彼のポリシーが第6話『紅葉狩り』で存分に発揮されるのだが、その中で以下のセリフが個人的に印象に残っている。

たしかに僕らのような人間には喰われる心配がない。天敵がいない。死んで焼かれて灰になって、微生物に喰われて土に還るぐらいだ。

でもそうなると、僕には寂しいという気持ちが残るなぁ。いきなり微生物に喰われるのは寂しんだな。

どうせ死ぬのなら、あんまり痛くさえなければね、僕は狸に喰われるのがいいんだ。

病院でしわくちゃになって死ぬよりも、狸の晩ごはんになるほうがいい。病院で死んだって誰の栄養にもならない。そんなのは寂しいねぇ。狸が腹を膨らませてくれるほうがよっぽどいいなぁ。

『有頂天家族』より引用

「たしかにそうかも……!」と思ってしまった。ここに生命の美しさみたいなものを感じる。「食べるということは愛するということである」の気持ちも、たしかにわかってしまう。

ここ最近は動物愛護団体が変に活発化していて「動物を食べるな!」みたいな思想が相次いでいる。でも淀川教授のポリシーからは、動物愛護の過度な思想をぶっ壊すような、そして原典のような重みを感じてしまった。

近年、再び「食べる」という行為の再定義が求められている気がしている。そんなときは『有頂天家族1期』の淀川教授を思い出すのがいいかもしれない。

さいごに

僕は森見登美彦作品てが大好きだけれど、その中でも『有頂天家族1期』はかなり好きな作品だった。『有頂天家族1期』では人間と狸について深掘りされたけれど、天狗についてはまだ深掘りされていない。多分『有頂天家族2期』で表現されるのだろう。

『有頂天家族2期』も視聴次第、ブログにしていこうと思う。

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