【アブソリュート・デュオ感想】OPは最高、脚本はよくわからん

アブソリュート・デュオ
星島てる
アニメ好きの20代。ライターで生活費を稼ぎながら、アニメ聖地の旅に出ている者です。アニメ作品の視聴数は600作品以上。

今回は『アブソリュート・デュオ』について語っていく。

『アブソリュート・デュオ』は2012年からMF文庫Jで刊行されているライトノベルが原作だ。そして2015年冬クールにTVアニメが放送される。アニメ制作はエイトビットが担当した。

目次

『アブソリュート・デュオ』の評価

※ネタバレ注意!

作画70点
世界観・設定30点
ストーリー30点
演出65点
キャラ45点
音楽70点
※個人的な評価です

作画

「予算内でどれだけやれたか」という部分に関して言えば、それなりに上手くやれていたと思う。特にOPが素晴らしい。エイトビットは江畑諒真を筆頭に、度々「一人原画」を実施することが多く、今回のOPはそれだった。3コマ打ちであれだけの躍動感を出せるのだからすごい。なお、おかげさまで僕はOPをほとんどスキップしなかった。癖になる作画だ。

一方で、本編の作画は中の中or中の下くらいのイメージ。たしかに線はよく動いているものの、それ以上にキャラデザのブレが気になってしまった。

世界観・設定

2010年代前半の典型的なライトノベルという感じではある。でも、設定の作り込みはかなり甘い。デュオである必要性も薄いし、キーテーマでもある「アブソリュート・デュオ」がよくわからないまま物語が終わってしまった。厨二病要素も、悪い意味で強い。単なるオ◯ニー作品になっている感じだ。

ちなみに、裏テーマとして「力」が挙げられると思う。これは感想の方で後述する。

ストーリー

ストーリーはかなり酷い。これは原作ライトノベルの問題ではなく、アニメ製作側の問題だろう。どう考えても尺のバランスがおかしい。なぜクライマックスの戦闘シーンの尺を極端に短くするのだろうか。笑 作画カロリーを落としたいからか、それとも日常のエッチなシーンに尺を割きたかったからなのか。『アブソリュート・デュオ』はプロデューサーの数がなぜか多いから、責任の所在が不明瞭だったと考えられる。

ちなみに『アブソリュート・デュオ』は1巻あたり3話の進行で、4巻分のストーリーを全12話でアニメ化している。たしかに少し尺がキツイ構成だけれど、全然カバーできる範囲ではある。だから、やはりアニメ製作側で何か問題があったのだと思う。

演出

それで、脚本が割と酷い中で、作画とか演出とかはちゃんと仕事していたと思う。特に胸の動きは良い。めちゃくちゃ不自然な動かし方をしているけれど、これが一周回って良い。それなりにシリアスな戦闘シーンでも、胸をたぷんたぷんと揺らしている。ここまで潔いと、逆に好感が持てるものだ。

また、カット割りでいちいち体の線を強調しているのも、バカすぎてかえって面白い。「いやそれはおかしいだろw」みたいな。

キャラ

ひとまずライトノベルという枠組みだと、キャラは普通。主人公も典型的だし、ヒロインも典型的。ただし、ストーリーの上で動いている感じがしていて、機械的に見える。特にリーリスが九重透流を好きになる流れが、イマイチよくわからん。まさにハーレム系作品の特徴だ。

音楽

映像が良かったこともあってOPの『Absolute Soul』は中々良かった。やっぱり映像が良いと、音楽も良く感じられる。それにEDもキャラソンを3種類用意していて、しかも映像をちゃんと動かしていたから、かなり気合が入っていたと思う。個人的には『アップルティーの味』が好み。

『アブソリュート・デュオ』の感想

※ネタバレ注意!

エイトビットは、よくわからん

僕のアニメ視聴の基本方針は「とりあえず名作を押さえておく」だ。その際に参考にしているのがアニメ制作会社で、例えば京アニ、P.A.WORKS、TRIGGERなどは、全作品視聴しておきたいアニメ制作会社だ。それでいくとエイトビットはなんともいえない立ち位置にある。少なくとも「全作品視聴する」という強いモチベーションは、僕にはない。

そもそもなぜ『アブソリュート・デュオ』を視聴したのかと言うと、僕がたまたま山形県に訪れる予定があったからだ(本記事を書いている今、山形にいる)。『アブソリュート・デュオ』で登場人物が通う学校が、旧山形師範学校がモデルとされている。ということで聖地巡礼ヲタクである僕は『アブソリュート・デュオ』を視聴することにした。

話を戻すと、エイトビットはよくわからない。『アブソリュート・デュオ』では、やはりOPが素晴らしかった。あれだけの躍動感ある動きの原画を、江畑諒真が一人でこなしている。それにEDの映像も悪くない。というか本編の作画も、決して悪いものではなかった。問題は脚本やプロデュースの部分で、これはエイトビットだけでなく、製作委員会自体の問題もある。けれども、その経営方針を決めているのはやはりエイトビット自身なわけだから、やっぱりエイトビットのプロデュースは少々問題だ。

エイトビットは度々、実験的な作画を手掛けることが多く、そこには凄まじいポテンシャルが眠っているように思う。これを最大限活用すれば、エイトビットが一気に名を挙げられるはずだ。逆に「なんでこんなところで燻っているんだろう」という感じである。

“力”を他のものに置き換えてみるといい

『アブソリュート・デュオ』は”力”がテーマになっている。作中で登場する登場人物は、それぞれ事情を抱えていて、とにかく力を欲している。例えば主人公の九重透流とメインヒロインのユリエは”復讐”のために力を欲しているし、ヒロインの一人である穂高みやびは透流を振り向かせるために力を求めていた。

しかし『アブソリュート・デュオ』の世界で力を手に入れるためには、”何かしらの技術”を用いることで、力を解放する必要がある。そして強い力に溺れてしまうと、力を制御できなくなり、暴走してしまいがちになるという感じだ。実際、ユリエも暴走したし、みやびも”触れてはいけない力”に手を出してしまった。

このように、”力”に溺れる様を描く作品は非常に多い。アニメだと『コードギアス 反逆のルルーシュ』『まどマギ』が良い例だ。また、500年ほど時間を遡れば、シェイクスピアの『マクベス』などの悲劇も該当する。

一応これらの作品だと非現実的な力が描かれるので現実味がない。だから、自分ごととして考えたいのであれば、力を”財力”や”権力”に置き換えてみればいい。

典型的な例だと、家族を養うための仕事が挙げられる。家族と自分が幸せに生活するには、それなりのお金が必要だから、仕事を一生懸命頑張る。そして少しずつ財力や権力を手に入れるようになってくると、余計に仕事が楽しくなる。そうすると「家族を養うための仕事」にもかかわらず、家族よりも仕事を優先するようになってしまい、家族との関係が悪化。全然幸せじゃない。みたいなケースは、よく見受けられるだろう。

逆に言うと、”力”を追求するということは、何かを捨てるということでもある。例えば、家族とか友情とか。そういえば『アブソリュート・デュオ』の中でも、そんな感じのセリフが登場した気がする。

さいごに

せっかく『アブソリュート・デュオ』を視聴したわけなので、しっかり聖地巡礼しようと思う。そちらの記事も近いうちに投稿するので、ぜひ読んでみてほしい。

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