今回は『終物語(下)』について語っていく。
『終物語』は『物語シリーズ』の作品であり、西尾維新が原作の小説でもある。原作小説では上巻・中巻・下巻に分かれており、上巻・中巻は2015年秋クールにTVアニメが放送された。そして『暦物語』と『傷物語』のアニメが公開された後、2017年8月に下巻の内容が放送される。アニメ制作はシャフトが担当した。
『終物語(下)』の評価
※ネタバレ注意!
作画 | 85点 |
世界観・設定 | 85点 |
ストーリー | 88点 |
演出 | 85点 |
キャラ | 90点 |
音楽 | 80点 |
作画
先日まで『傷物語』を視聴していたこともあり、『傷物語』の凄まじいクオリティにすっかり慣れてしまった。やはり『傷物語』に比べると従来の『物語シリーズ』の作画はインパクトに欠ける。とはいえ、他の一般的なアニメよりは凝っている。
世界観・設定
まずは地獄からスタートするという壮大な設定。『物語シリーズ』は死んでしまった後も物語が平気で続いていくということだ。まさに怪異譚。
ストーリー
『終物語』というタイトルの通り、一区切りはついた。阿良々木暦の始まりから描かれた『終物語』は、忍野扇の正体が阿良々木暦だったということで、このやり方も個人的に好き。そしてついに、阿良々木暦の青春が終わったということなのだろう。
また、シナリオ構築がめちゃくちゃ複雑なのだけれど、西尾維新はこれを全て想定して執筆していたのだろうか。だとしたらめちゃくちゃすごいんだけど。
演出
演出に関しては『傷物語』よりも従来の『物語シリーズ』の方が好きだ。ただし、やはりクオリティは『傷物語』の方が高い。
ちなみに個人的には、どう考えても二人乗りできそうにない自転車を漕いでいる忍野扇が阿良々木月火に「後ろ乗ってく?」と声をかけ、それで月火がスタンディングスタイルで乗り込む演出が印象的だった。超人かよ、こいつら。
キャラ
『終物語(下)』のメインパーソンはもちろん忍野扇。こいつの正体が阿良々木暦の自己批判精神なのは、たしかに納得だ。そして扇を救い出した阿良々木暦は、なんだかんだで最初から変わってないなぁと思う。もちろん、良い意味で。
あと、八九寺真宵が救出されたのは個人的に嬉しいところ。そしてデート中の戦場ヶ原ひたぎが最高に可愛い。
音楽
OPは個人的にはピンと来てない。強いて言うなら『ひたぎランデブー』の『dreamy date drive』が好き。そしてEDの『SHIORI』は良い曲だった。Clarisの卒業ソングというところか。
『終物語(下)』の評価
※ネタバレ注意!
『傷物語』の後に放送して正解
『終物語(下)』や『暦物語』は原作小説とは異なる順番で公開されている。まず原作小説はこんな感じの順番だ。
- 憑物語
- 暦物語
- 終物語(上)
- 終物語(中)
- 終物語(下)
- 続・終物語
一方、アニメ版は以下のような順番で公開された。
- 憑物語
- 終物語(上・中)
- 暦物語
- 傷物語
- 終物語(下)
- 続・終物語
まず終物語(上・中)を放送した後に暦物語を公開したのは、単純に時系列に合わせたということだろう。そうした方が、物語の振り返り的な役割がある『暦物語』が活きる。それと『こよみデッド』の衝撃もかなり強調されるはずだ。
そして『終物語(下)』が公開される前のタイミングで『傷物語』を公開したのも納得だ。製作陣が意図的にこのような順番にしたのかどうかを僕は知らない。しかし『傷物語』でのラストシーンを知っておかないと『終物語(下)』の阿良々木暦の葛藤が活きてこないのは事実だ。
この順番で公開したのはめちゃくちゃ正解だったと僕は考えている。
『物語シリーズ』における青春とはなんなのか?
Wikipedia先生によると『物語シリーズ』は青春怪異小説というジャンルらしい。では青春怪異小説とは一体どのようなものなのだろうか。ChatGPTに聞いてみた。
「青春怪異小説」は、日本の小説のジャンルのひとつで、青春時代を過ごす主人公が、超自然現象や怪異などに巻き込まれるストーリーを描いた小説のことを指します。このジャンルは、日本の文学史において比較的新しいものであり、1980年代に「魔女たちの22時」などの作品が出版されたことを起点として、その後多くの作品が生まれました。
「青春怪異小説」は、青春時代を過ごす若者たちが、超自然現象や怪異に対峙しながら、成長していく様子を描くことが特徴的です。また、神話や伝説などの日本の文化要素が盛り込まれることがあり、和風ファンタジーの要素も持ち合わせています。多くの作品が、学園を舞台に展開されることが多く、学生たちの日常生活や友情、恋愛などが、超自然現象と絡まりながら描かれることがあります。
たしかに『物語シリーズ』は青春怪異小説ということで間違いなさそうだ。
そして今回の『終物語(下)』で阿良々木暦の青春が終わったようだが、そもそも阿良々木暦の青春とはいったい何だったのだろうか。その答えは『傷物語』のキャッチコピーが端的に表している。
青春は、いたみなしでは過ごせない。
『傷物語』より引用
また、当初の阿良々木暦はこんなことを口癖のように言っていた。
友達は要らない。
友達を作ると人間強度が下がるから。
『傷物語』より引用
阿良々木暦の青春はキスショット・アセロラオリオン・ハードアンダーブレードと羽川翼との出会いから始まった。それから阿良々木暦は様々な人(怪異)と出会うことになるのだけれど、その度に自分を犠牲にしながら問題を解決していく。この”自分を犠牲にしながら”というのがまさに「青春は、いたみなしでは過ごせない」だし「友達を作ると人間強度が下がるから」ということなのだと思う。自分を犠牲にしながら他人を助ける(阿良々木暦いわく、勝手に助かる)ことこそが、阿良々木暦なりの青春だったのだ。
ここで『終物語(下)』。
阿良々木暦は忍野扇を救う決断をするわけだけれど、忍野扇が阿良々木暦の自己批判精神が生み出した怪異だとするならば、阿良々木暦が忍野扇を救うということは自分自身を救うという解釈もできる。ここでようやく、阿良々木暦は自分を大事にすることができたのだ。そしてこれにて、阿良々木暦の傷だらけの青春が終了したのである。
……たしかに、これは青春の定義の一つと言えるかもしれない。
僕たちが実際に送ってきた学校生活の中でも、自分を犠牲にしながら(貶めながら)他人と接することが何度かあったのではないだろうか。もちろんこれは見方を変えると美しいのだが、行き過ぎると自分をダメにしてしまうことになる。実際、日本人の多くは”空気”を守るために自分を犠牲にすることが多いのではないだろうか。この辺については『傷物語』でも表現されていると思う。
しかし『終物語(下)』でやっと、阿良々木暦は自分を助ける決断を下した。これはどう考えても「他人や空気を大事にするのではなく、なによりも自分を大事にしろ」というメッセージを示している。特に阿良々木暦は典型的な日本人だから。自分よりも他人を大事にしてしまう人だから。これは日本では美徳とされるのだろう。だが、それで自分が傷ついてもいいというのはナンセンスだ。
さいごに
『終物語(下)』でついに物語が終わったかと思うが、なんと『続・終物語』なんてものが2018年に公開されている。「”終”わったのに”続”くってどういうことだ!?」と思うが、まあちょっとしたスピンオフになっているらしい。
ということで『続・終物語』をとっとと視聴して、アニメ版『物語シリーズ』に終止符を打とうと思う。