【空の青さを知る人よアニメ映画感想】されど、空の青さを知る

空の青さを知る人よ

今回は『空の青さを知る人よ』について語っていく。

『空の青さを知る人よ』は超平和バスターズが原作で、2019年に上映されたアニメオリジナル作品だ。

超平和バスターズといえば『あの花』『ここさけ』だが、今回の『空青』も埼玉県秩父市が舞台となっている。

目次

『空青』の評価

※ネタバレ注意!

作画85点
世界観・設定80点
ストーリー80点
演出80点
キャラ80点
音楽80点
※個人的な評価です

作画

『あの花』や『ここさけ』に比べると、キャラの動きがちょっと味気ない気がする。まあ、多分僕の気のせい。

その一方で演奏シーンが、地味だったけれど非常にクオリティが高かった。3DCGに頼らず、手描きでしっかり表現している。アニメーション作品として、純粋に楽しめる作画だった。

世界観・設定

『あの花』『ここさけ』と比べても、秩父をかなり強調した世界観になっている。『あの花』や『ここさけ』は正直なところ、秩父である必要性を感じないけれど、『空青』は秩父でなければいけない。

「井の中の蛙、大海を知らず」の後に続く「されど空の青さを知る」が印象的な作品だ。

ストーリー

ストーリーの質は高い。特にクライマックスが印象的だ。普通に考えると秩父フェスでの演奏をクライマックスに持っていくと思うけれど、あれはあれで好き。

演出

あいみょんの『空の青さを知る人よ』が挿入されるクライマックスは爽快だった。空の広さを感じさせる演出で、まさに「されど空の青さを知る」だ。

キャラ

『あの花』『ここさけ』とは異なり、大人が多かった。恋愛も、少年少女のような淡い恋愛だけではなく、大人の苦い恋愛も描かれている。

そこにファンタジー要素として生き霊を登場させたのが『空青』の最大の魅力だ。少年少女VS大人の構図を作り出している。

音楽

あいみょんの『空の青さを知る人よ』がとても良い曲だった。あいみょんの曲は、キャッチーなんだけど、どこか新しさがあるというか。言語化するのが難しいな……。

『空青』の感想

生き霊の使い方が匠

『あの花』『ここさけ』を制作してきた超平和バスターズは「アニメでリアルな人間ドラマを描く」というスタイルで制作してきたチームだ。

そんな中『空青』では、生き霊というファンタジー要素を交えながら物語が進んでいく。ただ、生き霊といっても具体的には金室慎之介の高校生の姿をした生き霊であり、通称「しんの」だ。

生き霊というからには、何かしらの役割があって登場しているのだろう。まず考えられるのが「金室慎之介を前に向かせるため」というもの。ミュージシャンになったのはいいものの、自分の音楽が満足にできていない金室慎之介は、秩父に戻ってくることをためらっていた。だが実は、金室慎之介はまだ諦めておらず、でも踏ん切りがつかないということで立ち止まっていた。

そこで「しんの」の登場だ。実際に「しんの」と金室慎之介が出会った時は、それはそれは眩しい火花が散った。「しんの」の高校生らしいポジティブな考えと、社会を知ってしまった金室慎之介のネガティブで真面目な考え。大人になった多くの方々は、子どもだった頃の自分が「カッコいい!」と思える大人になれているだろうか。そんなことを考えさせられるシーンだ。

それでまあ「しんの」の役割は金室慎之介の人生を前向きなものにするためだと思うけれど、それと同時に相生あおいにも強い影響を及ぼした。『空青』のキャッチコピーは「これは、せつなくてふしぎな、二度目の初恋の物語」だが、まさにあおいは二度目の初恋をしてしまう。

いや。「二度目の初恋」とはそもそもおかしい表現だ。初恋とは”初めての恋”で初恋なわけで、二度目の恋は初恋にはならない。だが二度目の初恋というのは、昔の初恋を再度思い出してしまう気持ちであり、それはある意味、過去に囚われているという解釈にならないだろうか。

そう考えるとラストシーンは非常に切ない。「しんの」が消えてしまう瞬間は、相生あおいにとって初恋に対する失恋なのだから。

超平和バスターズは複雑な人間関係を緻密に表現するのが上手だと僕は解釈しているけれど、『空青』に関しては生き霊の使い方が巧みだったと思う。

井の中の蛙、大海を知らず。されど、空の青さを知る。

『空青』で印象に残る言葉を挙げるなら、やはり「井の中の蛙、大海を知らず。されど、空の青さを知る」だ。「井の中の蛙大海を知らず」は有名なことわざだけれど、その次に続く「されど空の青さを知る」は知らなかった。

というか本当に存在することわざなのかと思い調べてみると、どうやらこれは造語らしい。それでもう少しリサーチを進めていくと「”されど空の青さを知る”は言い訳に過ぎない」という思想が多く見受けられた。

たしかに「井の中の蛙大海を知らず」という言葉は、視野の狭さを揶揄したことわざだと思うけれど、そこに「されど空の青さを知る」を付け加えてしまうと、意味が大きく変わってしまうのだ。

でも僕は個人的に「されど空の青さを知る」という言葉が好きだ。

少年少女や「変わりたい!」と望む人の多くは「井の中の蛙大海を知らず」を口癖に、自分が住んでいる場所から外に出ようとする。だが大海を知るといっても、それに圧倒されて何もできないことはザラだ。それに大海と同じくらい、空の青さも美しいものである。

僕たち人間は山の向こうや海の向こうを意識しがちで、その向こう側に何かを期待しているけれど、空の向こう側や広さには全く注目がいかない。ふと見上げるだけで、そこには空の青さが広がっているのに、だ。

『空青』でいえば、相生あかねがまさに『空の青さを知る人』だった。大海の青さを知らなくても、空の青さだけで十分満足できるものなのである。

なんか中途半端な気がする

正直なところ、これまでの超平和バスターズ作品である『あの花』や『ここさけ』と比べると、『空青』はなんかパッとしない。それでなんでパッとしないのかを考えた時に、『空青』って萌え要素が薄過ぎるよなぁと思った。

『あの花』『ここさけ』、もっと遡れば『とらドラ!』という作品は、萌え要素とリアルな人間ドラマの絶妙なバランスが、僕としては魅力だった。もちろん『とらドラ!』『あの花』『ここさけ』と進むにつれて萌え要素は薄まっていくのだけれど、声優の力もあって萌え要素は保たれていた。

例えば『ここさけ』のキャラデザはかなり現実的になったけれど(特に髪色)、普通に声優が演じていたから、それなりに萌え要素がある。

しかし『空青』は、声優ではなく俳優が声を担当した。実際、俳優の声の演技は悪くないどころかむしろめちゃくちゃ良かったのだけれど、逆に良すぎたのかもしれない。萌え要素が薄れ過ぎていて、僕が魅力だと思っていた”萌え要素とリアルな人間ドラマの絶妙なバランス”が失われてしまったのだ。

もちろん『空青』は素晴らしいアニメ映画の一つだと思うけれど、『あの花』や『ここさけ』に比べると変に大衆向けにしすぎたかなぁと思う。しかも、その割に興収も落ち込んだから、なんとも言えない感じである。

さいごに

『空青』以降、超平和バスターズによる新作アニメ映画は発表されていない。そのうえ超平和バスターズの3人(長井龍雪・岡田麿里・田中将賀)は、いずれも引っ張りだこの優秀なクリエイターなので、この3人が再び集まるというのはタイミング的に難しい側面もある。

とはいえ、超平和バスターズの新作を求めるアニメファンは多くいる。それに全ての版権をアニプレックスが中心となって管理していると思われることから、企画も比較的出しやすいだろう。僕としても超平和バスターズの作品は大好きなので、また新作が出て欲しいと思う。

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