今回は『デッドデーモンズデデデデストラクション(以下、デデデデ前章)』 について語っていこうと思う。
『デデデデ』は浅野いにおによる漫画(ビッグコミックスピリッツ)が原作で、2022年までに全12巻が刊行された。そして2024年に、前後編で劇場アニメが公開される。アニメ制作はProduction +h.が担当した。
『デデデデ前章』の評価
※ネタバレ注意!
作画 | 90点 |
世界観・設定・企画 | 93点 |
ストーリー | 90点 |
演出 | 90点 |
キャラ | 90点 |
音楽 | 83点 |
作画
『地球外少年少女』を制作したProduction +h.がアニメ制作を担当しているということだけれど、案の定、作画のクオリティはかなり高かった。3DCGのクオリティが高いことに加え、漫画的な表現が多用されていて、とても現代的だと思う。作画に飽きることはなかった。
世界観・設定・企画
様々なメッセージ性を感じさせられる世界観だった。色々な漫画賞を受賞しているのも納得である。
極めて現代的な作品に仕上がっていて、その上で、現代カルチャーを象徴する”あの”と”幾田りら”を起用しているのも印象的だった。2020年代で最先端を走るアニメを作ろうと思ったら、こうなるんだろうなぁ、という印象を受けた。間違いなく傑作である。
ストーリー
前後編でそれぞれ大体2時間ずつっぽい。全12巻の漫画を計4時間に収めるのは、ちょっと走り気味だけど、逆にテンポ感が良くなるという見方もできる。アニメ脚本の仕事人と言っても過言ではない吉田玲子が脚本を担当していることもあり、ストーリーの破綻は一切なく、かつシナリオが濃い。退屈な気分にさせられることがなかったうえ、後編がとても気になった。
演出
『デデデデ前章』の最大の特徴と言っていいのが演出だ。”あの”と”幾田りら”という強烈なキャストを効果的に活用できている。その上で、個性爆発の台詞回しも完璧に演出していて、キャラクターの動き方や表情の作り方もめちゃくちゃ良かった。3DCGだからこそできる表現と、手描きアニメだからこそできる表現がしっかり用いられているので、とても現代的な映像表現に仕上がっている。
1つだけ懸念点を挙げるなら、栗原キホが亡くなったあとに挿入される感動シーンが、視聴者をちょっと煽りすぎで、かつワンパターンだと感じた。『デデデデ前章』は、個人的に”完璧なアニメ”だと思っているけれど、この感動シーンだけは「なんだかなぁ」という気分にさせられた。
キャラ
とにかく全キャラクターが個性的だ。極めて漫画的なキャラデザになっている。
また、主人公格の門出とおんたんは、一見すると、ただのふざけキャラに見えるが、ちゃんと内面が丁寧に描写されていて、とても感情移入できるキャラに仕上がっている。それに加えて、”あの”と”幾田りら”の演技が想像の10倍ほど味があって、それが強烈な個性を生み出している。
音楽
主題歌の『絶絶絶絶対領域』は、タイトルでわかる通り、とても現代的かつ刺激的な楽曲に仕上がっている。
劇伴も、強烈な映像に負けていない仕上がりになっていた。
『デデデデ前章』の感想
※ネタバレ注意!
現代アニメの1つの最高到達点
『デデデデ』は現代アニメの1つの最高到達点なのではないかと思う。
僕が個人的に最高到達点だと思っている『よりもい』が光り輝く眩しいアニメだとしたら、『デデデデ』は大きな闇を抱えたアニメである。現代社会に蔓延る闇をコミカルに描きながらも、個人が社会に対してどのように向かっていくべきかを問題提起している。
それでいて、映像表現も非常に良かった。セルルック3DCGが注目されているなか、現代アニメ界では手描きアニメだからこそできる映像表現が求められている。それでいくと『デデデデ』は、キャラクターの動きや表情が、どれも手描きアニメだからこそできる表現になっている。『デデデデ』に登場するイソベやんは『ドラえもん』をモチーフにしているのは言うまでもないが、藤子・F・不二雄や手塚治虫が作り出しそうな漫画的なキャラクターが『デデデデ』に多数登場している。
台詞回しについても、とても現代的だった。ネット用語とJK用語をミックスさせた”現代語”を多用していて、それを”あの”や”幾田りら”に喋らせているのだから、なおさら現代的である。
もし「2020年代だからこそ作れるアニメ」を本気で作ろうと思ったら『デデデデ』みたいな作品になるんだろうなぁ、と思った。『デデデデ』は2020年代だからこそ完成されたアニメであり、同時に、現代アニメにおける最先端アニメとも言える仕上がりになっていると感じる。疑いようのない大傑作だ。
陰謀論、バイアス、意識高い系、平和、恐怖
『デデデデ』は、極めて現代的な現象がブラックに描かれている。
例えば、門出の母親・小山真奈美は、8.31以降、A線による汚染をひどく恐れて、常にマスクとゴーグルを装着し、挙げ句の果てには東京から脱出して、A線の影響を受けない田舎町に移住してしまう。
キホの彼氏である小比類巻健一は、ネットからの情報だけに頼った結果、「東京にいたらヤバい」ということで、”どうすればより良く生きられるか”に強く執着し、目の前にいる彼女・キホの気持ちを考えられなくなってしまう。
ほかにも、陰謀論(半分ジョークだと思うけど)に傾倒するおんたんや、自分の正義を間違った方法で振り回し、人を殺してしまった門出など、ブラックな設定がところどころで散見された。
んで、既にこの辺の問題提起に対する答えは『デデデデ』の中で出ている。それは、キホが健一に対して言っていた「自分の頭で考える」ということだ。
結局のところ、オーガニックやマルチ商法やスピリチュアルやオンラインサロンや自己啓発や反コロというのは、自分の頭で考えられない人間が傾倒するものである。本当は自分の頭で考えるべき”具体的な答え”を、オーガニックやオンラインサロンに求めるのだ。しかし、オーガニックやオンラインサロンが、具体的な答えをもたらすことは絶対にない。ただただ、お金を時間を搾取するだけである。
もちろん、このような宗教的な要素が必ずしも悪いというわけではない。やはり、大衆の不安を取り除く装置として、宗教的なものは必要だと思う。しかし、それはあくまでも、自分の頭の中で考えるということと、全て自己責任であることが前提である。最終的な判断は自分で、しかしその判断要素の一部として、オーガニックや自己啓発的な考えを参考にするのは、悪いことじゃないと僕は思う。
そして『デデデデ』のすごいところは、この問題提起を”エイリアン”や”侵略者”という超SF要素で表現してしまったことである。言われてみればエイリアンや侵略者は、得体のしれないものである。たしかに真奈美や健一のように、ひどく偏った情報に頼ってしまいたくなるのもわかる。『デデデデ』における侵略者は、我々が住む社会における新型コロナ、南海トラフ地震及び首都直下型地震、なんかよくわからない経済の話、放射能、残存農薬、新型NISAなどを象徴している。
なんだかよくわからない情報を膨大に浴び続けている現代人が、自分の頭で考えられなくなり特定の情報に偏ってしまう様を、『デデデデ』は上手に表現しているのである。
『デデデデ』のセカイ系は、どこに向かっていくのか?
『デデデデ』の最大の問題提起は、個人と社会の関係性の在り方だと思う。
『デデデデ』の世界観は、相当にぶっ飛んでいる。8月31日、東京都に巨大な空飛ぶ円盤「母艦」が襲来。そこから侵略者の攻撃により、多くの人々が死亡するが、米軍の攻撃によって母艦は停止。そのまま東京都上空に母艦が浮かんでいる状態で、自衛隊と侵略者による攻防が日常になり、東京に住む人々は再び、ごく普通の生活を送るようになる。
『デデデデ』を見ていると「いやいや、俺だったら絶対東京から逃げるわ」と思ってしまいがちになるんだけど、多分、多くの人は、そのまま東京に残り続けるんじゃないかなと思う。3年間は普通に生活できていたわけだし、何よりも、多くの人が東京に残っているからだ。「みんなが東京に残るんだったら、多分大丈夫だろう」という感覚である。このような現象を「心理的バイアス」と言う。
とはいえ、流石に全員が東京に残り続けるわけではない。門出の母親は「A線がヤバい!」ということで東京から逃げたわけだし、キホの彼氏も「東京は終わり」と言っていたわけで、危機感を持つ者は少なからずいるわけだ。この”危機感を持つ者”は、具体的にはオーガニック信者だったり、「日本はオワコン」と言い続けている若者だったり、「投資しないとダメ」と信じる中年の方々だったりする。たしかに、オーガニックの方がいいのかもしれないし、日本はオワコンなのかもしれない。それに少なくとも、老後に備えたキャリアプランは間違いなく必要になるだろう。
でもだからと言ってそれが、目の前の人を大事にしなくてもいい理由にはならない。ここが『デデデデ』における最も重要な問題提起である。たしかに、日本は終わりかもしれない。オーガニック食品を食べないとダメなのかもしれない。サラリーマンはオワコンなのかもしれない。でもそんなことよりも、目の前にいる大切な人を守ることが最優先事項なのではないだろうか。
インターネットが普及し、人々が情報に容易にアクセスできるようになった現代社会では、個人の社会参加が間違った形で普及しているように思う。いわゆるネトウヨみたいなやつが典型例だ。たしかに社会は、複数の個人によって形成されるものだ。だから、一個人が社会参加に積極的なのは悪いことではない。ロクに投票せず、社会参加に積極的ではない今どきの若者よりはマシかもしれない。だが、一個人が社会を変えることなどできないことも、また事実である。これを理解していないのが、いわゆるネトウヨみたいな連中である。
たしかに社会は個人によって形成されるが、コミュニティの単位が「個人」から「社会」に一気に飛ぶわけではない。まず血縁の繋がりとして「家族」がある。次に、都会では既に失われているが「ご近所付き合い」がある。その次には、所属先としての「学校」や「会社」がある。その上には「市」や「村」などの地方自治体があり、その上に「都道府県」が乗っかり、最終的に「国」となり、最後の最後で「地球」がある。もし宇宙開発が進んでいけば「地球」の上には「太陽系」「銀河系」「宇宙」が乗っかるのだろう。
ということで、たしかに個人による社会参加は大事だが、いきなり「個人→社会」というわけではない。大抵の場合、その間に「家族」や「会社」が挟まってくる。つまり「個人→家族→会社(学校)→社会」というのが、個人と社会の結びつきにおける正しい理解だと僕は思う。
インターネットが登場して誰もがグローバルに発言できる時代では、たしかに「個人→社会」の考え方が成立するかもしれない。でも社会に影響を及ぼせる個人というのは、ごく少数である。しかもそれはあくまでもネット上だけの話で、人間として現実世界で生きる以上、血縁と愛がもたらす家族や友達が存在するはずだし、物理的な距離の近さによって生まれる「ご近所付き合い」や「国民」という構成単位も存在するし、社会に影響を及ぼしている個人の大半は「会社」を作ることで、社会に強い影響を与えている。世界で最も注目されているイーロン・マスクですら、数万人規模の従業員をコントロールすることで、やっとのこと、社会を変えることができているのである。
そして、たしかに個人が社会を変えるのは激ムズなのかもしれないが、すぐそばにいる大切な人を守ることぐらいは、誰にでもできるではないだろうか。実際、全人類の大多数が結婚しているのだから、すぐそばにいる大切な人を守ることは、ごく当たり前のことだと言える。そして大切な人を守り、支えていくことが、結果として社会を支えることに繋がることを、忘れちゃダメだ。
『デデデデ』は、間違いなくセカイ系に属する作品である。セカイ系とは、主人公たちの行動が、中間領域である社会(家族・会社など)をすっ飛ばして、上位領域である世界に影響を与えるストーリー構造のことを指す。おそらく後編では、門出とおんたんの行動が、世界の行く末を左右するんだと思う。はたして門出とおんたんは、どのような選択を取るのだろうか。その選択が『デデデデ』が提起する大問題の1つの答えになるだろう。
さいごに
『デデデデ』は問題提起やメッセージ性が素晴らしいと思うけれど、やはり映像表現やキャラクターが優れていることが、最大の特徴だと思う。それで現状として、2024年のアニメ映画における傑作に、間違いなく入ってくるだろう。
ということで後編も楽しみにしたいと思う。