【ゲド戦記感想】宮崎吾朗監督が手掛ける親殺しの物語

今回は『ゲド戦記』について語っていく。

『ゲド戦記』は、アーシュラ・K・ル=グウィンの小説を原作とし、また、宮崎駿の絵物語『シュナの旅』も原案とした長編アニメーション映画(2006年公開)だ。

アニメ制作はスタジオジブリが担当。監督は宮崎吾朗が担当した。

目次

『ゲド戦記』の評価

※ネタバレ注意!

作画92点
世界観・設定83点
ストーリー85点
演出85点
キャラ85点
音楽85点
※個人的な評価です

作画

世間一般的には「『ゲド戦記』は宮崎駿作品より劣る」と言われているけれど、まあ確かに『ゲド戦記』は、それまでの宮崎駿作品に比べると「うーん……」ってなる作画だった。とはいえ、相当のリソースが投入されていることもあり、同年代のアニメ映画に比べれば、遥かにクオリティが高いのも事実だ。個人的には市場のシーンが好き。

世界観・設定

世界観は、ちょっとパッとしないのが正直なところだ。これは良い意味ではなく、悪い意味である。悪い意味で、メッセージ性が不明瞭になっている。

竜の世界と人間の世界があり、人間が世界をダメにする根本的な原因というのはわかるけれど、それがアレンの心情描写に合致しているように見えない。この2つの要素を結びつけるキーワードが「闇」とか「影」だと思うんだけれど、その辺の説明もちょっと足りてない感じがする。

ストーリー

息子が父親を殺すところからスタートして、それを「宮崎親子」に当てはめると「これはおもしろいかも!」となるのだけれど、結局、ストーリーがどこに向かっていったのかが見えてこなかった。紐解けなかった僕の問題もあるかもだけれど、全体的に、ストーリーの終着点は見えづらかったとは思う(というか、そもそもなかった?)。

演出

映像面の演出は、ジブリらしさを感じさせるものばかりだった。動物の動きも良かったし、アレンが砂漠の中で狼に追いかけられるシーンの演出もジブリらしかった。

一方で、エモさには欠ける。これは映像面ではなく、音楽面の影響が大きいのではないかと個人的に考える。ジブリ作品は、高クオリティの映像と同時に、音楽も非常に重要な要素になっている。だが『ゲド戦記』の音楽は、ちょっと印象に残りづらいかな、という感じがあった。

キャラ

アレンは、これまでのジブリ作品の主人公と比べても、かなり”心が弱いキャラ”だと感じる。これはもしかしたら、宮崎吾朗監督だからこそ作れるキャラかもしれない。実際、そのキャラ設定はかなり良かった。

一方、ヒロインとしてのテルーは、なんとも言えない。僕は個人的に、ジブリ作品は女性の強さを描くことが多いと思っていて、それで言うとテルーやテナーは、完全に”強い女性”だと思う。でも「テルーが実は龍だった」という設定の必要性が、どうしても感じられなかった。「うーん……」という感じである。

音楽

先ほども述べた通り、『ゲド戦記』はこれまでのジブリ作品(というより久石譲)に比べて音楽のエモさに欠ける印象を受けるのだけれど、それはあくまでも相対的なものであって、普通に音楽のクオリティは高いと思う。挿入歌『テルーの唄』は色々と権利の問題があったそうだけれど、純粋にメロディーが良かったと思う。

『ゲド戦記』の評価

※ネタバレ注意!

批判されていることの大半が”企画”の問題

『ゲド戦記』は、ジブリ作品の中でも非常に批判の声が強い作品である。まあたしかに、批判が強くなるのもわからなくはない。実際、これまでのジブリ作品に比べると微妙だったのは事実だ。

ではなぜ『ゲド戦記』が微妙になったのかと言われれば、それはもう企画の問題に尽きる。”ジブリの後継者問題”や”宮崎親子の確執”はもちろんのこと、そもそも”『ゲド戦記』を映像化したい”という目的が先走りしてしまったのが問題だと思う。

申し訳ないが、僕は『ゲド戦記』の原作を(まだ)読んだことがないのだけれど、原作者のアーシュラ・K・ル=グウィンの発言を見るに、たしかに『ゲド戦記』のエッセンスは、これまでのジブリ作品に散りばめられていると感じる。だから別に『ゲド戦記』を特別に映像化する必要はなかった。でも結局『ゲド戦記』が映像化することになり、ただし宮崎駿が『ハウルの動く城』を制作中であったことから、宮崎吾朗が監督に就任。原作にはないエピソードである”父殺し”を盛り込むなどで、余計に企画がこじれてしまった。

ということで『ゲド戦記』は企画の問題なのである。実際、作品のクオリティは「さすがスタジオジブリ!」ということで、非常に高かったし、映像表現や雰囲気を楽しむだけでも、十分にチケット代を払う価値があったと言える。でも、企画があやふやな状態で制作がスタートしてしまったため、脚本や世界観がごちゃごちゃになりすぎた印象がある。『ゲド戦記』に関係なく、普通に「魔法の世界で父殺しする」という世界観でオリジナルストーリーを作れば良かったんじゃないかなぁと思う。『ゲド戦記』の”命”や”世界の均衡”というメッセージ性に、”父殺し”を組み合わせ、それを2時間の映画1本でまとめるのは至難の業のように思える。

『ゲド戦記』にしかない魅力

『ゲド戦記』を批判するのは簡単だけれど、褒めるのはそれなりに難しい。というのも『ゲド戦記』は、先ほど述べた企画上の理由で、非常にごちゃごちゃした世界観になっているからだ。

でも、数あるスタジオジブリ作品の中で『ゲド戦記』にしかない魅力と言われたら、やはり主人公のアレンに尽きる。僕がこれまで視聴してきたジブリ作品の中でも、アレンは決定的に”弱いキャラ”であり、”青臭いキャラ”だ。もはや中二病的なキャラクターと言ってもいいんじゃないだろうか。

でも、このキャラクター性は、2006年時点で考えると、かなり現代的だった。実際、これまでのジブリ作品に登場した”強いキャラ”よりも、アレンのような”弱いキャラ”の方が、感情移入できる時代になっていたのではないかと思う。

『ゲド戦記』のメッセージ性である”世界の均衡”や”命”は、これまでの宮崎駿作品である『となりのトトロ』『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』の方が、ダントツでよく描けている。また、”魔法”に関しては『魔女の宅急便』が秀逸だった。

一方で、独自要素になった”父殺し”のパートは、やや中途半端感が否めないにしても、宮崎吾朗監督『ゲド戦記』の大きな魅力だと言える。これまでのジブリ作品の主人公であれば、絶対に親なんか殺さない。でも、アレンは冒頭で、特に論理的な理由もなく、親を殺した。この理屈では語れない感情的な荒っぽさは、良くも悪くも、これまでのジブリ作品にはない要素だったと言える。

さいごに

『ゲド戦記』を手がけた宮崎吾朗監督は、二作目となる『コクリコ坂から』でも監督を務めている。こちらも大至急視聴しようと思う。

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