今回は『機動戦士ガンダムSEED DESTINY(以下、SEED DESTINY)』について語っていく。
『機動戦士ガンダムSEED』は2002年10月から2003年9月まで放送されていたTVアニメで、その続編となる『SEED DESTINY』が2004年10月から2005年10月まで放送された。アニメ制作はサンライズが担当している。
『SEED DESTINY』の評価
※ネタバレ注意!
作画 | 91点 |
世界観・設定 | 88点 |
ストーリー | 85点 |
演出 | 88点 |
キャラ | 85点 |
音楽 | 80点 |
作画
2000年代前半であることを考慮すると、作画のクオリティは高い。戦闘シーンは、めちゃくちゃ迫力があるというわけではないけれど、相当のリソースを割いていることは普通にわかる。爆発のシーンとかがかなり良い。一方で「これは使い回しだよなぁ」というのもあって、まあこれはこれで一周回っていい感じ。
世界観・設定
前作ではナチュナルとコーディネーターの差別意識などがテーマだったけど、本作では、個人が理不尽な社会に対してどのように立ち向かっていくかがテーマになっていたと思う。また、カガリを起点に、政治の難しさについても語られていた。設定は前作より本作の方が難しいかも。
ストーリー
ネット上でも述べられている通り、回想シーンがちょっと多い。僕も思わずスキップしてしまった。
また、クライマックスのインパクトがちょい弱いのも引っかかる。前作ほどの緊迫感はなかった。
一方で序盤・中盤の展開は中々良くて、特に悩み苦しむアスランには思わず感情移入してしまった。見ていて気持ちのいいストーリーではないのだけれど、それはそれで優れたストーリーだと思う。
演出
やはり中盤のモヤモヤ感の作り方がいい。シン・アスカとアスランの関係性は、すごくモヤモヤするのだけれど、視聴者の心をモヤモヤさせる点で見れば、演出が優れていると言える。それと挿入歌の使い方がよかった。個人的にはムウ・ラ・フラガの復活が超好き。
キャラ
キャラは賛否両論ありそうだ。Wikipediaにも書いてあるけど、基本的に最初から最後までブレなかったのはキラ、ラクス、デュランダルくらいで、他のキャラは相当にブレている。アスランやカガリはまだしも、ルナマリアとタリアはガチでブレまくってる。これを「人間臭い」と言えばそれまでだけど、キャラが作り込まれてなかったのではないか、という疑念もある。これは受け取り方で評価が割れそうだ。
ちなみに僕としては、これだけドロドロな人間関係を描いているのだから、そう考えると「キャラがブレブレ」なのは割と納得がいく部分があると思っている。まあだとしても、ルナマリアのブレ方は反感を招くよなぁ。でもそれをルックスが大幅に上回ってる感じである。
音楽
前作に比べてインパクトに欠けるのが正直なところだ。一方で挿入歌の『Meteor -ミーティア-』は流石に強烈だった。
『SEED DESTINY』の感想
※ネタバレ注意!
具体的な答えは、自分で見つけるしかない
前作『機動戦士ガンダムSEED』は、比較的簡単なストーリーだった。というのも『機動戦士ガンダムSEED』の敵は、ブルーコスモスやパトリック・ザラなどの強硬派だったからだ。割と簡単な構図だったと思う。
一方の『SEED DESTINY』は、明確な敵が最後まで存在しなかった。たしかに最終的にはデュランダルが敵ということになっていたけれど、一方でデュランダルのプランも、決して間違いというわけではなかった。
そのうえ、シンやルナマリアは最後まで自分の答えを出すことができなかったと思うし、最初から最後まで一貫していたのはキラとラクスぐらいである。
アスランも含めて、ザフト軍関連の登場人物の問題点は、具体的な答えをザフトに求めていたことである。「どうすれば戦争が終わるのか?」という命題は非常に難しい問題だ。自分で考えて答えを出すのは極めて難しい。だから、芯のない登場人物は、自分で考えるのを半ば放棄し、それなりに具体的な答えを提示してくれる他者や国を信じる。シンとルナマリアはその典型例だし、アスランも最後の最後まで苦しめられていたように思う。
そう考えると、デュランダルの「メディアを通した人心掌握」は、極めて効果が高かったと言える。というか、これが『SEED DESTINY』の1つのテーマだったようにも思えてくる。
『SEED DESTINY』では結局「どうすれば戦争が終わるのか?」というテーマに対する答えは提示されなかった。その一方で、何を信じるべきなのかは、ハッキリと提示されていたように思う。それは「自分」に他ならない。他者や国の言葉に惑わされすぎず、自分自身を信じる。これが、極めて複雑化した社会を生き抜く上で、求められる能力ではないだろうか。
力を持つこと、戦うということ
『SEED DESTINY』において、デュランダルは明確な敵を作り出すために、戦争を裏で動かすロゴスの存在を暴露。これにより、火種が一気に燃えて、戦争の規模が大きくなってしまう。
これは、現実世界でも全く同じことが言える。2024年1月現在も戦争が実施されているが、これにより、武器商人である軍需産業は儲かりまくりだ。そして各政党のバックには、軍需産業がついている現状がある。もちろん、軍需産業が世界の全てを握っているわけではない。一方で、資金力があるのは疑いようがなく、それが政党を支えていることから、結果的に世界において大きな権力を持つに至っている。
『SEED DESTINY』の世界も全く同じだ。ナチュラルの過激派・ブルーコスモスにロゴスが癒着しており、ブルーコスモスがやたらと戦争を仕掛けたがるのも、ロゴスの影響が大きかった。ということで、デュランダルはロゴスの存在を暴露し、明確な敵を作り上げることに成功したのである。
一方で、デュランダルの印象操作には矛盾がある。というか『SEED DESTINY』全体で矛盾がある。デュランダルやアスランが「兵器はない方がいい」と言っている一方で、結局は兵器を手に取って戦っているのだ。そしてこれは『SEED DESTINY』における重要なテーマになっていたように思える。
力を持つことは、はたして悪いことなのだろうか。それは結局のところ、時と場合によるだろう。これは様々なアニメで言われていることだが「力は誰かを守るため」に存在するのだ。だから、誰かを守るために、力を持つことは、決して悪いことではない。実際に我々の世界でも、正当防衛が認められている。
だから「戦う」ということは「誰かを守るため」に行われるべきであって「誰かを攻撃するため」に行われるべきではない。この「攻撃」には復讐も含まれる。結局は、復讐さえしなければ、必ず戦いは終わるはずなのだ。
だが、全ての人間が現実を受け入れるとは限らない。シン・アスカのように、復讐に心を支配されて、敵を見誤るケースがほとんどだ。だから戦争は、終わらない。キラもアスランも前作の時点で「復讐が何も生まないこと」を理解しているのだけれど、それを世界に浸透させるのに苦戦していたように思う。
でもオーブの意志が伝播していくように、自分たちで行動を起こせば、世界は必ず変わってくれる。だから本当に世界を変えたいのであれば、愚痴なんて言ってないで、自分の意志を確固たるものにして、行動を起こすしかないのだ。そう考えると「戦う」ということは「自分を守るため」と「世界を変えるため」の2つの目的があるのだなぁと思う。
さいごに
2024年1月から『劇場版 機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』が上映される。そのために僕はこのタイミングで『SEED』を視聴した経緯がある。
結果的にこれは大成功だった。素晴らしい作品に早く出会うことができたからだ。
ということで、いち早く『劇場版 機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』を視聴しようと思う。