【SAC_2045最後の人間】最後の人間はポストヒューマン(と少佐)

星島てる
アニメ好きの20代。ライターで生活費を稼ぎながら、アニメ聖地の旅に出ている者です。アニメ作品の視聴数は600作品以上。

今回は『攻殻機動隊 SAC_2045 最後の人間(以下、SAC_2045最後の人間)』について語っていく。

『攻殻機動隊』は士郎正宗による漫画が原作で、2002年に『攻殻機動隊S.A.C.』のTVアニメ1期が放送。2004年にはTVアニメ2期となる『攻殻機動隊S.A.C.2nd』、2006年には長編アニメの『攻殻機動隊S.A.C.SSS』が放送された。

そして2020年に新シリーズである『攻殻機動隊 SAC_2045』のシーズン1が配信開始。2022年にはシーズン2が配信され、シーズン2の総集編として『SAC_2045最後の人間』が公開された。

アニメ制作はProduction I.GとSOLA DIGITAL ARTSが担当している。

目次

『SAC_2045最後の人間』の評価

※ネタバレ注意!

作画89点
世界観・設定84点
ストーリー83点
演出80点
キャラ85点
音楽82点
※個人的な評価です

作画

初めて映画館で『攻殻機動隊』を視聴することができた。あらためて、巨大スクリーンで視聴すると、作画の凄さがよくわかる。『SAC_2045最後の人間』は全編3DCGで、モーションキャプチャを利用することで、限りなくリアルな戦闘シーンを描くことに成功している。

世界観・設定

実質的な2度目の視聴で、やっと世界観の全貌が見えてきた感じがする。

また『攻殻機動隊S.A.C.』の始まりは2030年で、なんだかんだでそこから15年経過して2045年になっている。2045年にもなれば、一般的な人々が理解できないような技術も当然登場しており、少佐の言うように、本当にいつの間にか進化を遂げるようになっているのかもしれない。

“Nの世界”はかなり大胆な設定だけれど、逃避的なメタバースが、同じような現象を生み出すのではないかと考えられる。

ストーリー

総集編とはいえ、尺は約2時間あったので、大部分がカットされている印象はなかった。また、実質的な2度目の視聴ということもあり、終盤における怒涛の展開や、トグサがなぜ少佐に救われたのかを理解することができた。これぞ総集編の楽しみ方だろう。

演出

やはり戦闘シーンの演出が素晴らしい。3DCGだからこそできるカメラワークだし、銃撃戦もかなりリアルだ。個人的に印象に残っているのが、高速道路上でのポストヒューマン(女性で名前は忘れた)との戦闘だ。カーチェイスがおもしろかったし、ポストヒューマンが自動車を操って公安9課にぶつけにいくシーンはヒヤッとした。

キャラ

あらためて視聴すると、トグサの扱いが非常におもしろいと思う。常に公安9課から離れて行動していて、でも直接的にトグサの心情が語られることはほとんどなかった。一方、バトーはかなり丁寧に描かれていた印象がある。

音楽

やっぱり映画館で聴く音楽は格別だ。グランドシネマサンシャイン池袋で鑑賞したからか、普通の映画館より音質がよかった気がする。

『SAC_2045最後の人間』の感想

※ネタバレ注意!

実質的な2度目の視聴でトグサの謎が解けた

『SAC_2045最後の人間』を視聴することは、シーズン2を復習することでもあり、そのおかげでトグサの雪景色の芯が理解できた。

まず前提として、Nになるためには、ミニラブで与えられる郷愁ウイルスを喰らって浄化される必要がある。そしておそらく、郷愁ウイルスで完全に浄化されなかった人が「Nぽ」なんだと思う。つまりトグサの雪景色は、Nになるために行われる浄化の真っ最中だったということになる。

でも結局、トグサはひとまずNにならずに済んだ。なぜなら少佐がトグサを助けてくれたからだ。

これについては色々な解釈がある。トグサの心の中にいた少佐が、トグサの目を覚ましてくれたのかもしれない。でも個人的には、少佐がNの世界を飛び交う過程で、トグサのNの世界に入ったという説を推したい。

つまり、世界全体がNになったあとの少佐が、トグサを助けたということだ。時系列的にごちゃごちゃになるけれど、トグサが失踪するあたりから世界のN化が進んでいたことを考えると、あの時点で、(世界全体がNになったあとの)少佐が既に暗躍していた可能性がある。

ラストで少佐がバトーの目を覚ましたように、あの雪景色のトグサも、様々な虚構を行き来する少佐が助けたんじゃないかなぁと思う。

「最後の人間」の意味とは?

『SAC_2045最後の人間』は、シーズン2の総集編だけではなく、一部、新規カットが挿入されていた。

事前情報によると『SAC_2045最後の人間』は別のエンディングが描かれるということで、僕はてっきり、少佐がケーブルを引き抜くのかと思ったのだけれど、結局、ケーブルを引き抜くことはなかった。ただし、シーズン2では少佐がケーブルを引き抜いたかどうかが解釈次第だったのに対して、『SAC_2045最後の人間』ではほとんど明確に、少佐がケーブルを引き抜かなかったように見えたと思う。なぜなら、最後の最後で、バトーがNの世界に気づいたことが明確に描写されたからだ。

では、そもそも”最後の人間”とは一体なんなのか。今回挿入された新規カットの中で、少佐は「人間性を最後まで保てたのは、シマムラタカシや江崎プリンなどのポストヒューマンだったな」という趣旨の発言をしていた。つまり、このタイトルにおける”最後の人間”は、ポストヒューマンということになる。

これは、実に皮肉な話のように思える。人々の人間性を喪失させようとしたのはポストヒューマンであり、そもそもポストヒューマンは、高いレベルでコンピュータと人間が融合した存在なので、もはや人間ですらなかった。しかし、最後の最後まで人間性を保てていたのは、ポストヒューマン(と少佐)だったのである。

思えば、押井守版の『攻殻機動隊』で、少佐は、自分がどんどん人間じゃなくなるから、いっそのこと別の存在になってしまった経緯がある。押井守版における少佐は、ポストヒューマンみたいなものだろう。

しかし『SAC_2045最後の人間』では、コンピュータと高いレベルで融合したポストヒューマンが、最後の最後まで人間性を保つことができた。そして、かく言う少佐も、最後の最後まで人間性を保つことができた。

これに対してシマムラタカシは「少佐は夢と現実に違いがないロマン派で、それは少佐が”世界をより良くするため”に社会と真摯に向き合ってきたからだ」と述べた(このセリフも新規カット)。

『攻殻機動隊S.A.C.2nd』から、社会とどう向き合うかが描かれてきたように思う。多くの人は、社会を本気で変えようともせず、それでいて社会に文句をつける。または、社会を本気で変えることに興味はなく「自分さえ良ければそれでいい」という人もいるだろう。しかし少佐は数少ない「社会を本気で変えようとした人」だった。その意味で言えば、シマムラタカシなどのポストヒューマンも同じだろう。だから、最後の最後まで人間性を保つことができたのかもしれない。

新世代を見届けることにした少佐

『SAC_2045』という作品のテーマは”新世代”だ。シーズン1のエピソード2『AT YOUR OWN RISK / 壁が隔てるもの』で、課長はトグサに以下のように述べた。

ワシはここ数年、混迷する社会とどう折り合いをつけるかを模索し続けてきた。その答えを、次の世代が導き出せる礎を、お前たちに築いてもらいたい。

『攻殻機動隊 SAC_2045』より引用

以上のこともあり、トグサはシマムラタカシをかなり熱心に追いかけたし、なんだかんだで、少佐がポストヒューマンを庇うシーンも見受けられた。課長が江崎プリンを公安9課にゴリ押しで入れたのも、世代の引き継ぎを意識したものだと考えられる。テクノロジーの進化によって混迷する社会に対して、次の世代がどのような答えを出すのか。それが『SAC_2045』のテーマだったわけだ。

そして”新世代”の代表格とも言えるシマムラタカシと江崎プリンは、それが正しいかどうかは一旦置いといて、ダブルシンクの世界を望んだわけである。もちろん少佐は、ケーブルを引き抜くことで、元の世界に戻すことはできた。しかし、新世代のシマムラタカシと江崎プリンが出した答えを見届けたかったというのが、本音だったのだと思う。

さいごに

ひとまず『SAC_2045』は、これで完結だ。今後『攻殻機動隊』のメディアミックスが進むかどうかは、ぶっちゃけよくわからない。でも『SAC_2045』で、一応、1つの答えを出せたのではないかと思う。

しかし、やはり『SAC_2045』の世界は、ディストピアにしか見えない。ダブルシンクは、要するに現実逃避ではないか!でもその中で、少佐やバトーのように、現実から目を背けない生き方を選ぶ人も一定数いる。

僕は『SAC_2045』の世界のように、99%の人は、現実逃避という形でNのような存在になるのではないかと考えている。その一方で、残りの1%の人は、現実から目を背けず、まるでニーチェの言う”超人”のように、強く生きるのではないかと思う。

現在のメタバース(SNS)は、摩擦係数0どころか、ネガティブな空間に成り果てていて摩擦だらけなのだけれど、もし摩擦係数0のメタバースを実現できるのだとしたら、いよいよ多くの人がメタバースに逃げ込んでしまうのだろう。その社会の中で、どちらの道を選ぶのか。もちろんニーチェの”超人”はかっこいいのだけれど、実際のところは非常に厳しい道だとは思う。いっそのことルサンチマンを抱えて弱者になった方が賢明なのかもしれない。

それで多分なんだけど、シマムラタカシや江崎プリンのようなSNSネイティブの人は、きっと躊躇なく、Nになれるんじゃないかなぁと思ってしまう。こうして世代交代しながら、全人類がNになる世界が、近い将来訪れるんだと思う。

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